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「栗金が八百津発祥の地」説に挑む03

3. 砂糖はどちらが優位に運ばれたのか?

まずは明治20年当時に砂糖はどちらが入手しやすかったかの背景を探りながら、仮説を組み立てる。江戸幕府は廻船沿岸交通網を整備し、同時に山間奥地への河川舟運網の全国整備を展開する。この物流機能は鉄道が整備される大正前期まで全国各地で重要な役割を担った。尾張藩の八百津黒瀬湊は木曽川最上流部で存分に機能を発揮する。黒瀬街道などで苗木藩を中心に山間部から米・穀類・炭・板材・繭・茶などを運び、山間部へは塩・古着・海産物・肥料などを運ぶ。明治前期には塩と同時に砂糖が同じ経路で大量に運ばれている(美濃国加茂郡誌・中津川アーカイブス等参考)。八百津黒瀬湊には江戸時代中期の貨幣社会到来とともに問屋・家内制手工業が集積し、明治期には塩同様に砂糖も舟運で大量に持ち込まれた。一方の中津川や恵那はどうなのか?中仙道などの幕府が整備する街道は時代により変動するが各宿に近隣村々への使役として人馬の提供が義務化され、物流よりも通信網・公の交通網としての機能が主体であった。しかし藩や庶民の物流を中心とした機能の街道は他にあった。舟運の最上流地から山間部へ物流中心の街道である。山村でも貨幣が必要であり、その街道は農耕・林業閑散期には人馬(牛)による駄賃稼ぎ、つまり駄賃馬制で貨幣獲得および物流機能を発揮した。明治期の砂糖の移入経路はいろいろ考えられる。矢作川(現豊田市)経由中馬街道(田中氏/塩移入研究論文参考)が最短移入路と報告されているが、最上流湊から遠く、駄賃馬駅伝制入抜きもあり八百津黒瀬湊より入手量の安定とコスト面で圧倒的に不利であったと考える。明治20年当時の商品の栗金開発について原料の栗供給、モデルとなるソウルフードの存在は両者には差がない。ただし、今回の考察のように明治期の砂糖の移入には八百津がコスト・量確保・安定供給において商品化には優位であったと考察する。