八百津町の歴史
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錦織綱場
錦織綱場の開設年代は鎌倉時代に起源すると言われ、足利時代の永正年間には、錦織村河上綱場、筏場の両役所があって通関及び使用料を取り立てていたという記録があります。この綱場が本格的に運用されるようになったのは、尾張藩が木曽の山林及び木曽川の運材の権利を領有するようになってからであり、寛文五年(一六六五年)には、ここに地方役所が設けられ、奉行以下役人百三十八名が常駐していました。
木曽の山から伐り出された材木は、一本一本木曽川を狩り下げ、ここで初めて筏に組まれ、犬山・名古屋方面へと流送されていました。
年間三十万本もの単材が筏に組まれ、通常秋の彼岸から春の彼岸まで筏流しが行われました。 -
山論
「さんろん」と読みます。
村や藩の 領地争いのことで、最終的には領 主か幕府が裁決していました 。
福地と久田見の村境(苗木藩と尾張藩の藩境)をめぐる山論は、苗木藩の福地村など9ヵ村と尾張藩久田見村の領地紛争。
肥料や薪など、生活に必要な資源の調達場所として重要な山村。村境をめぐる争いは、江戸の神社奉行へ出訴するまでに発展しました。領民にとって死活問題にかかわるとして、互いに譲らず槍、刀を持ち出して争う者もいました。 -
黒瀬湊~黒瀬街道
かつて八百津は、木曽川上流で伐採した木材を筏に組む要所であったのと同時に、様々な商品も交易されていた地でもありました。物資を川で運ぶことを「舟 しゅううん 運」と呼びます。山国の特産物は黒瀬街道を人馬に背負われ、中継地の久田見を経て、木曽川の黒瀬湊へと運ばれ、舟に積まれて下流各地へと送られていました。
下りの一艘に載せられる荷物量は四六〇貫(約一七二五㎏)で、炭、薪、氷、木材、コンニャク芋、お茶、生糸、雑穀などであったとされています。黒瀬街道は、八百津町の南を東西に流れる木曽川にあった黒瀬湊を起点に恵那へと至る昔の幹線道路です。
八百津町山村エリア
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久田見
標高520m程の高原地にあり、かつては中山道から分岐し、八百津地区を経て、信州(長野県)及び飛騨にいたる飛騨街道の重要な一小宿として賑わいをみせました。
現在でも商店街、保育園、小・中学校、役場出張所、交番、郵便局、神社、お寺などがあり、一つのまとまった集落が形成されています。 -
福地
町の最高峰である見行山(けんぎょうざん)は、この地区のシンボル的な山で、多くの登山客が登山道入り口(標高650m)から緩やかな山道を進んで山頂(標高905m)を目指します。
山頂から見渡す景色は絶景で、天気が良ければ近隣市町村の街並みや、中央アルプス、御嶽山などが見渡せます。 -
潮南
八百津市街地から、新旅足橋経由で国道418号線を進んでいくと、突き当りに見えてくるのは「しおなみ山の直売所」。地域おこし協力隊と地元の住民が共同で手掛けた施設名とかわいらしいイラストの入った大きな幕が、直売所の壁を着飾っています。直売所に入ると、地元で栽培された季節ごとの新鮮野菜がたくさん並びます。