戦国時代、織田信長の尾張平定や美濃攻略の事業にあたっては常に第一線に立ち、大きな戦功をあげたことによって烏峰城を与えられ、東農地方を支配することになった森三左衛門可成という武将がいた。
後に可成の跡を継いだ森武蔵守長可は、城下町経営はもちろんのこと領国経営の一環として川湊を開設育成しようとした。史料には「船問屋福井治郎左衛門を金山下渡に移転させ、船問屋及び、船頭屋敷として1反4畝16歩の地を免租地とし、ここに船問屋、同倉庫、船頭屋敷等の建設を認めた」とある。このことから戦国時代末期にはすでに兼山湊が生まれていたということが分かる。
慶長5年、森右近大夫忠政が川中島に国替になると兼山は城下町としての地位を失うことになった。しかし幸いにも当時は兼山湊が木曽川における遡航終点であったため、東農でただ一つの川湊として発展する可能性は残されていた。
元和元年、兼山村が尾張藩領になると、兼山湊は船役銀(船1艘につき銭10文)を尾張藩に納めることになった。当初は尾張藩の役人が兼山に出張して兼山湊を飛騨川にあった下麻生湊と共に支配していたが、その後、兼山湊の船問屋治郎左衛門が兼山湊と下麻生湊の船役銀の取立てを代行することになった。その船役銀の総領が6,000両にも及んだというから、この二つの川湊の繁栄が伺える。
東農地方の物資の集散地となった黒瀬湊は、寛永12年頃には24艘~25艘の舟があり、稲葉右近の名古屋屋敷に年貢米や、薪炭、竹木を運んでいたと言うから近世初期において既に木曽川上川筋の遡行終点として発揮しはじめていたことがわかる。
その後、近世中期になると、「商家多くして繁昌なる湊なり、家数175戸(内四日市場8戸あり)男女654人、鵜飼舟60艘、白木問屋2戸、商人荷物問屋1戸あり、その外船乗り多し。この湊にて当初近村の商荷物は勿論の事苗木領より日々人の背負い出る荷物や牛馬荷物などを船積にして、木曽川を下し処々へ運送するに便利なる処なり。されば兼山辺りよりも港町並ににぎはしく見えたり。」とあるように、鵜飼船60艘で、近在の物資は勿論のこと、苗木領から出る物資を流送していた。当時の黒瀬湊は兼山湊をしのぐ賑わいを見せていたのである。
黒瀬湊に隣接する蘆戸にも「小商いをする家多し 此の所は御役桴11ありて多く桴乗を渡世とす。又船かせぎもする也。黒瀬附の鵜飼船10艘あり」とあるように、黒瀬湊に集まる物資の流送に携わって生活する人々もいた。
また黒瀬の本郷である細目村も近世中期になると、この本郷より黒瀬までの間で煙草、炭、薪、板類、糸、木紙、塩、味噌、竹の皮、材木、白木などを商い、其の外萬物商も多かった。
木紙は細目村を初め隣郷の苗木藩領、信濃辺りから買い寄せて、岐阜や上有地へ売り、糸蛹は尾州丹羽郡辺りならびに上州、信州、飛騨辺りより買い求め、細目村にて糸に引き、関・岐阜辺りへ送っていた。材木、白木、板類、炭、薪は苗木領近村などより買い寄せ、名古屋・笠松・桑名表へ送り、また塩は名古屋・四日市・桑名・笠松・北方・円城寺辺りより買い寄せ、隣村苗木領辺りへ売り捌いていたことが史料から分かる。細目村が、黒瀬湊の舟運を背景に東農地方における商品経済の一つの中心となっていたことが伺える。