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尾張領久田見と苗木領九カ村の山論
「山論」という言葉を辞書で調べると「江戸時代、入会林野の利害関係をめぐる、いくつかの村間の論争・紛議のこと。最終的には領主(または幕府)が裁決した。やまろん」となっている。  古くの時代には、村や藩ごとの境界は、不明確きわまりない状況であった。中でも山林地内の境界は、地形が複雑であったり、人が容易に近づけない急峻な谷間があったり、展望のきかない山また山の中であったため、曖昧であった。  「山論」を簡単に言えば、昔の村や藩の領地(境界)紛争である。福地と久田見(苗木藩と尾張藩)の境界紛争は、江戸時代の一六〇〇年も半ばころから、たびたび起こっていた。村の実力者や、村役による調停により、不……more >>

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山論の舞台・長曽橋
 福地村と久田見村による山論は、尾張藩の久田見村VS苗木藩の福地村、犬地村、上田、飯地、中野方、切井、黒川、赤河及び蛭川の9村連合であった。  山論の舞台は、福地、犬地両村の土地であったが、苗木藩の7村が加わったのは、福地村長曽にあった長曽橋(古くは「中瀬橋」と称した)が絡んでいた。長曽橋は黒瀬街道の長曽川に架橋された要衝であり、福地村庄屋・辻市左衛門正倚宅から約100mほど下流に位置し、現八百津町内で一番古い橋とされている。長曽橋がいつごろ架橋されたかを知る史料はないが、戦国時代の細目村黒瀬(現八百津町)から、この長曽を通り苗木の9村に通じていた。  架橋時期の一説には、1635(……more >>

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福地村と久田見村の山論2
 福地村と久田見村の山論上訴の背景には、久田見村が尾張藩をバックとして勝てるとの思いがあった。当時の尾張藩は60万石、対して苗木藩は1万500石である。  神社奉行所の裁定は、1823(文政6)年に下された。それは久田見村が主張する、油草・樽洞・伽藍・伽藍谷など8字は、福地村領とするものであった。現在の福地村の約2分の1に当たる面積である。  ただし、久田見村は、伽藍谷の一部200町歩(200ヘクタール)は100年間、福地村から借りることとした。これが後々問題を起こす原因となった。  裁定は、1813(文化10)年欅事件から1823(文政6)年までの10年を要した。1667(寛文……more >>

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福地村と久田見村の山論1
 福地村・犬地村(苗木藩)と久田見村(尾張藩)の山論は、江戸幕府までを巻き込んだ一大紛争であった。それは、大尾張藩と極小苗木藩の入会林野の領地紛争(境界争い)である。  幕藩体制が確立してくると、年貢完納は絶対命令となってきた。化学肥料がなかった時代の水田稲作の肥料は、人糞尿や牛・馬の厩肥のほかには、採草林からの木草に負うところが大きかった。年貢米を完納するためには、水田に施す木草が必須の条件で、領民にとっては木草の確保が米の収量に比例し、死活問題であった。木草を調達する山林は、村人にとって大切な調達場所であった。  福地と久田見の村境(苗木藩と尾張藩の藩境)をめぐる山論は、苗……more >>