八百津町の歴史河川輸送の基地「黒瀬湊」

木曽川を遡る船着き場としての黒瀬湊の起源を明らかにする確かな史料はないが、伝えられるところによれば、木曽・飛騨両川の合流以奥の木曽川の水面には、幾多の奔流急淵があって、それに増し河身は随所に屈曲し、波浪甚だしく、古来より舟行不能の個所として、舟行を試みたものが無かった。

元和年間(1615~23)になり木曽山が尾張領に入り、寛文五(1655)年に材木湊が下流の牧野(現美濃加茂市牧野)より、上流の錦織に移されることになった。そのころ長良川筋において水運に熟達し西濃長良荘上福光の杉山某が、この木曽川上流の水運を開発しようと試みて、自己の乗用していた鵜飼船で楫子を引き連れ、木曽川を 遡江して黒瀬に来て舟路を開発した。その結果、根拠地(湊)をさだめ、多数の楫子を指導し、これを統制して盛んに水運を行うに至った。これが黒瀬湊の起源である。数年、黒瀬舟の覇名を唱えるに至った。

八百津を今日に表しめたのは、氏に負うところが多かった。この説は記録によるものでなく、伝承を纏めたもので、杉山某を黒瀬湊の開始者とするにはあまりにも時代が新しい。

しかし、舟運開発が他の河川より技術導入がなされ、鵜飼舟の使用と舟頭の出自は、長良川筋からであったと推定される。そして杉山氏は、享保元(1716)年四月十二日、この地に於いて卒去され、その墓碑は黒瀬湊より約百メートル上流の木曽川畔に新しく立て替えられている。

木曽川の水運の重要性は、木曽谷から木曽材を流送することがあったが、さらに木曽川筋の経済開発の面からいっても川道交通の意義は大きかった。木曽川は交通の大動脈で、室町時代(1392~1573)には、既に木曽川上流川筋の逆行の最終港として兼山湊があった。

木曽川の舟運は木曽材流送の間を縫って行われていたから、近世の頃には、それほど発達せず、領主の必要な物資や年貢米の輸送が大半で、江戸時代によって「木曽式材木運材法」が確立してからは、材木が冬から春にかけて流送されるようになり、それ以外の季節は航行自由であった。
一方、農民の商品生産が盛んになるにつれ、木曽川は物資を輸送する大動脈となった。

寛永中ころ(1630年代)、黒瀬に住み着く者が次第に増加して、従来兼山へ運んだ久田見苗木領辺りの山荷物が黒瀬で売られるようになる、黒瀬には未だ船がないので、兼山商人に買い取らせ、兼山舟で船積みし下川筋へ送っていた。

その後、黒瀬も兼山舟を雇って船積みを始めていたが、やがて黒瀬に舟も出来てきた。寛永年間に黒瀬が兼山代わって終航地となるのみでなく、奥筋の山荷物の商いも兼山商人を締め出し、ここに新興黒瀬は「錦織御用舟」の公益負担によって舟運権を入手することになった。

ここに水運が開発されると、加茂・恵那の後背地の山地集落の人々は、この水運を利用することが多くなり、黒瀬湊は貨物の集散が夥しくなった。このため天正二(1574)年には黒瀬湊舟積荷物に十銭役を課せられ、さらに元禄七(1694)年よりは商人荷物運上銀を取り立てられることになった。

このころより商家が多くなり、木曽川最奥の河津として、常に多数の鵜飼舟がこの港頭に集まり、帆柱林立して繁栄の湊となった。

「濃陽循行記」に曰く、「享保四(1719)年御役場御番所を立て各務勘兵衛役銀の事を掌る。黒瀬舟積荷物十銭役は天和二(1682)年より、商人荷物諸色運上銀は元禄七(1694)年より取り立つ、黒瀬町は商家多く繁昌なる湊也。高百六十三石八斗七合 家百七十五戸男女六百五十四事、鵜飼舟六十 艘 あり」とある。当時陸上の交通機関が未だ完全でなかったので、舟運が唯一の運輸機関であった。

黒瀬湊は日ごとに盛んとなり、加茂郡東北部の久田見・福地・潮見・飯地・犬地・和泉・神土・恵那等の移出品は坂路を馬の背によって、ことごとく黒瀬湊に運ばれ、黒瀬船によって下流の岐阜・笠松・一宮・名古屋・桑名・四日市等の各地に回航され、また苗木藩の江戸御用米は、この黒瀬湊より積み出され桑名を経て江戸に回航された。しかも下航した鵜飼船は、塩その他の移入品を積み、満帆に風を孕めて上航し、湊からは陸路黒瀬街道や白川街道を馬の背により、加茂東部を始め、恵那郡木曽川以西及び南飛騨の一部等広き地域に搬送された。黒瀬湊には、日ごとに多数の駄馬が往復し、商業繁盛を極め、鵜飼い船は百隻の多くを数えた。
明治二十(1887)年頃がその最盛期であった。

2019/08/19 投稿
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