八百津町の歴史八百津町教育委員会が発表した明治時代における黒瀬舟

黒瀬湊といわれても、それがどこにあるのか知っている人は現在では少ないだろう。八百津生まれの60歳以上の者でも、みながそれをよく知っているわけではない。黒瀬湊の繁栄の面影どころか、その名前さえ何時の間にか消えうせてしまった。その旧跡は水底に沈み、その頃の船は写真でも明瞭に見ることが出来ない。

 また、黒瀬の地名もかつては本郷(細目)、芦渡、鯉居、油皆洞、諸田、杣沢、北山、大梁、須賀と並び称せられたが、今は役場の文書にもなく、組分されて玉井町、本町、旭町、港町に分かれた。明治初年には上町、下町の二つに分けられた。

 黒瀬並びに黒瀬湊に着いて書き記された文献については、寛政のころ尾張の儒学者、樋口好古によって著された、「濃州徇行記」と、同年頃の史料である「細目村庄屋留書」がある。

 その他に、八百津の伊佐治昭二氏が前出の二文献を参考にして発表した論文「近世木曽川水運に関する一考察 美濃国黒瀬湊を中心にして」(「立命館文学」1963年4月号)この論文では、黒瀬湊の現在の様子についてはふれていないので、明治時代を中心にして古老からの聞書きと、手元にある史料をもとにして記したものであろう。

転載:柘植成實 著
黒瀬街道

2019/09/09 投稿
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