黒瀬街道とは、八百津黒瀬湊から恵那市福岡町、苗木城下を結ぶ約40.57km、幅約2mの昔の幹線道路です。蛭川、中野方、福地、久田見の各村では、中央部を貫いて大変利用度が高い生活道路でした。そのため、明治から昭和の初めにかけて、各村々毎に改修工事なども行われて維持されてきましたが、最近の車社会の発達により、幅広い道路が要求されるようになり、現在では、廃道になり、利用する人もない状態となっています。荒れるがままに山林原野化し、雨水の流れも岩肌をむき出して、草木が生い茂って、昔の栄華の道も現在では、獣道と化しています。かつての昔の重要生活道は、今や消滅しようとしており、この道を歩き、馬の背に荷物をつけて、黒瀬通いの人々路傍の石ころまでも熟知した人たちも一人二人とこの世を去り、知る人も少なくなってきています。
この街道は、恵那地方では、黒瀬道と呼んでいます。久田見地方では、善光道と呼んで、八百津の一部において、苗木道と呼び、地域において自分の行き先によって呼び名も違ってくるようです。この道は、八百津港町「八百津橋のたもと」の黒瀬湊を起点として、久田見、福地、中野方、蛭川、恵那、高山を経て飛騨街道と合流して更に南下し、苗木、苗木城下までの道です。港から芦渡、鯉居を通り山間の急坂を登り、小屋が根峠を越して久田見村に入りました。ここから夫婦梨、野黒、寺坂、赤坂を経て中盛、野添、薬師、松坂の急坂を長曽え、長曽橋を渡れば福地本郷です。岩穴下落合の谷底の道を蔵橋の坂を上がって、いぼ岩峠、篠原を越して下ると恵那の中野方です。所々で道が分岐し、汐見や白川、恵那方面に至ります。重要幹線で、人馬の往来も多く、物資の輸送により苗木領の人々や各村々を支えた生活道路でした。また、往来する人たちのために、一里塚も設けられていたようです。
黒瀬湊を中心に街道が成り立ち、寛文5年頃(1665年)、木曽川の水運が始まり、その利用は益々繁栄の一途を辿り山国の産物、船を使っての尾張地方の特産物が湊に運ばれ、湊から黒瀬道を使って各地に人馬によって運ばれて行きました。昭和18年12月、兼山ダムの完成により、舟が全く姿を消して、船頭はついに水から陸に上がって木曽川の様相も変わり、黒瀬湊も川底深く水没しました。長い歴史を持つ黒瀬舟の舟運は、ことごとく姿を消して、幕を閉じました。今はその名残の湊の灯台が川上神社の常夜灯として舟の安全を祈っています。
舟の積載量は、一舟当たりが460貫、上りが100貫位で、下りの船は、炭、薪、氷、木材、コンニャクいも、お茶、生糸、雑穀など、尾張方面から上り荷として、野菜、油、石油、魚、肉類、味噌、たまり、塩、砂糖、うどん粉、乾物、衣類、金物、陶器などの、人の生活に必要な物資が湊に着いて、黒瀬街道を東西南北に人馬によって運ばれて行きました。
その頃、久田見は、黒瀬湊の中継地として、物資の配送などに当たり、馬など久田見に約150頭を持ち、鈴を鳴らしながら街道を通る馬の列が見られました。また、問屋は、中盛、松坂などにあり、現在は、その形すら消えていますが、屋敷などが往時の面影をしのばせます。恵那、白川方面からも必ず久田見の問屋を通って黒瀬湊へ。久田見が重要な交通の要所として大いに産業の発展に寄与しました。
また、久田見として、宿泊所や飲み屋、遊技場などがあって、久田見の町中も大変にぎわいました。このため、久田見の中盛地内などは、山村には珍しく固まった町並を形成しています。また、問屋の指示により、伯楽(馬などの医者又は見立てをする人)継立(荷物など運び送り継ぎする人)助郷(重い荷物を助けてやる人)などの仕事も問屋の仕事となり、小百姓も農閑期には駄賃持ちで一日二回ぐらい黒瀬湊に往復する人もあって、朝早くから遅くまでにぎわった黒瀬街道でした。