福地は、500~600メートルの高原であるにもかかわらず、村内には豊富な水が絶え間なく流れる小河川が何本も流れている。これら小河川は、水田の灌漑用水と利用されているのは当然であるが、そのほかに水の落差を利用した水車小屋が各所にあった。
水車小屋は、通常、玄米から白米にするための搗精を中心として、米粉や穀物の皮取りなどをする大事な作業小屋があった。
川をせき止め、取水口から水路を作り、一定の落差(約三メートル)ができたところに、小屋を建て水車を回した。そして、車軸にカムギアを付け、水車の回転運動を上下運動に変換して、樫の木で作った直径一五センチくらいの「突棒」が、石臼の中心に落ちるようにセットしてあった。もちろん、水車が回っていても、突棒は止めることができるように、「クラッチ」の役割をする装置もあった。
石臼は、縦横が一メートル、高さ約八十センチくらいの石に、直径 八十センチ 、深さは約五十センチくらいであった。穴の形は、すり鉢状ではなく、U字型の穴状に深く掘ってあった。
これは餅つき用の臼では 搗精中に米などが飛び出さないようにするためであった。一カ所の水車小屋に、石臼が二つ装備されていた。
米の搗精の場合、石臼には五升(約九リットル)程度の玄米を入れると、一昼夜(二十四時間)で白米となった。しかし、米と米糖が混じるため、専用の「篩」で米糖を搗精中に取り出す苦労があった。しかし、現在のコイン精米機と違って、じっくりと時間をかけ搗精し、精米中に摩擦熱を出さなかったため、大変味が良かった。
福地の水車小屋は、小河川の水流を利用して設置されていた。その数は分かっているだけでも十カ所以上あった。
豊富な水を利用した水車小屋であったが、搗精の効率が悪かったことに加え、農協が組合員の希望により、米つき作業の専任者を傭い、効率の良い搗精機を導入したこともあり、水車小屋の老朽化が進んだこと、水車小屋を修理しようにも修理するための技術を持った大工や石工がいなくなってしまったことなどにより、昭和二十年代(1950年ころ)後半には、ほとんど使用できる水車はなくなってしまいました。
童謡にも歌われた「森の水車」を懐かしく口ずさみながら、老人が米を背負い、農協の米つき場に通う姿があった福地の田舎風景を、今も思い出す。