福地村・犬地村(苗木藩)と久田見村(尾張藩)の山論は、江戸幕府までを巻き込んだ一大紛争であった。それは、大尾張藩と極小苗木藩の入会林野の領地紛争(境界争い)である。
幕藩体制が確立してくると、年貢完納は絶対命令となってきた。化学肥料がなかった時代の水田稲作の肥料は、人糞尿や牛・馬の厩肥のほかには、採草林からの木草に負うところが大きかった。年貢米を完納するためには、水田に施す木草が必須の条件で、領民にとっては木草の確保が米の収量に比例し、死活問題であった。木草を調達する山林は、村人にとって大切な調達場所であった。
福地と久田見の村境(苗木藩と尾張藩の藩境)をめぐる山論は、苗木藩の福地村など9村と尾張藩久田見村の領地紛争である。
領地紛争は、記録にあるだけで1667(寛文7)年から9回に及んでいる。紛争は、その都度内輪の内々で処理されていたが、1813(文化10)年、犬地村内で発生した「欅事件」が大山論の発端となり、1819(文政2)年久田見村が、一方的に江戸の神社奉行へ出訴した。
奉行所は、双方の言い分を聴取するとともに、現地調査も4回実施し、1823(文政6)年になり、久田見村の言い分を認めず、9村の主張する境界を確定した。実に4年の歳月を要した。
この間のいきさつは、多くの記録書があるが、福地村庄屋辻市左衛門による「山論日記」によれば、神社奉行所の3回目の現地調査は70日間に及び、苗木藩だけで5千人の村人を動員したという。おそらく、久田見村も同程度を動員したと思われる。
山論の結末は、多くの村人を巻き込みながら、沓として結論を得ることができなかった。この問題の処理には、村人の出役と費用を要したが、双方互いに譲らず真剣に論争が続いた。そして、血気にはやる村人の中には、槍・刀を持ち出して争った。
次回は、福地村と久田見村の山論の内容を記すこととする。
(注)山論の稿は 「切井郷土史」別冊(1988年・安江和夫編) 「福地村の戦争」(2007年・平野屋留吉著) を参考にした。