宝蔵寺では檀家も多く法要から葬儀など和尚様一人では大変に忙しい。時々和尚様の都合もみて檀家へも赴く様になった。いつとなく檀家の皆さんより「よねさんに庵を作ってやったらどうか」の声があがり相談がまとまりて本堂の東隅あたりに庵を作るべく檀家より柱一本、萱一束と集め皆総出にて庵作り。よねは「私にそんなお金などありません」と云って断ると「そんな心配いらない。檀家で作ってあげるから。」との返事に只感動するばかり。正面には奈良徳行寺を出る時貰って来た観世音菩薩と丸い石を本尊にして宝蔵寺よりほかの佛具など貰って一応庵の形が整った。そしてその名も『慈草庵』と名付け尼寺として毎日の礼拝から宝蔵寺の和尚様のお手伝等葬儀、法要などそれなりに忙しい。檀家からも「慈草様」と言われて親しくお付き合いが出来た。檀家の皆さんの御親切、優しさで感涙にむせび一層佛道を邁進する。慈草庵開創と共に檀家の皆さんが寺の境内に一本の山桜を植えた。
あれより二百五十年余り野黒藤山の寺の元屋敷。現在では幹廻り約十尺余、高さ約四十尺、悠々として今現在美しい花を咲かせて居る。
或る夜、慈草様が寝て居ると深夜戸を開ける音がする。泥棒が入って来た。細目を開けて見ると何か物色をして居る。泥棒が私に危害でも加え様としたなら持参した短刀にて驚かしてやろうと布団の中で短刀が役に立たない事を祈っていた。庵には何も盗る物もなく出て行った。子供も大勢居て生活も苦しく物盗に入ったで有ろう。可愛そうにと思った。その後慈草様も高齢となり宝蔵寺の脇尼僧として約四十年、遂に六十二歳の天寿を全うしてこの世を去った。
檀家の皆さんが寺の境内に亡骸を埋め五輪塔を建立した。俗名慈草庵浄心禅定尼と有る。時にして享和三年皆に惜しまれ乍ら藤山にねむる。誰が付けたか若い時の美しい尼さんで、その名を草姫様と今に云い継がれて居る。