村境をめぐる「山論」
「さんろん」と読みます。
村や藩の 領地争いのことで、最終的には領 主か幕府が裁決していました 。
福地と久田見の村境(苗木藩と尾張藩の藩境)をめぐる山論は、苗木藩の福地村など9ヵ村と尾張藩久田見村の領地紛争。
肥料や薪など、生活に必要な資源の調達場所として重要な山村。村境をめぐる争いは、江戸の神社奉行へ出訴するまでに発展しました。領民にとって死活問題にかかわるとして、互いに譲らず槍、刀を持ち出して争う者もいました。
古くの時代、村や藩ごとの境界 は不明確で、なかでも山林地内 は、複雑な地形や、急峻な谷間、 展望がなく曖昧なものでした。 八百津町の「山論」は、福地と久 田見(かつての苗木藩と尾張藩) との間でのこと。江戸時代の半 ば頃から、たびたび起こってい ましたが、村の実力者や、村役 によるその都度の調停で、不満 がありつつも口争いや小競り 合い程度のものでした。
ところ が、江戸幕府の徹底した年貢制 度は、村人の死活問題となりま した。年貢米をつくる田の唯一 の肥料は、山野の木草でした。
その確保量で米の収穫の多寡 が決まるようになると、それま で自由に採草できた原野や山 林の占有権を村それぞれが主 張し、紛争の種となりました。 福地と久田見との大山論は、文 化10(1813) 年。鎌・くわ・ナタ・ 竹槍などを持ち出す争いは、多 くのケガ人も出たそうです。の ち6年余り地元で解決を模索 するも小競り合いは続き、遂に 久田見村が尾張藩をバックに 江戸の奉行所へ提訴。解決に至 るまで4年を要したそうです。
八百津町文化財保護審議委員 二本木 紘
福地いろどりむら 辻 建彦