八百津町の歴史福地村と久田見村の山論2

 福地村と久田見村の山論上訴の背景には、久田見村が尾張藩をバックとして勝てるとの思いがあった。当時の尾張藩は60万石、対して苗木藩は1万500石である。

 神社奉行所の裁定は、1823(文政6)年に下された。それは久田見村が主張する、油草・樽洞・伽藍・伽藍谷など8字は、福地村領とするものであった。現在の福地村の約2分の1に当たる面積である。

 ただし、久田見村は、伽藍谷の一部200町歩(200ヘクタール)は100年間、福地村から借りることとした。これが後々問題を起こす原因となった。

 裁定は、1813(文化10)年欅事件から1823(文政6)年までの10年を要した。1667(寛文7)年から数えれば、156年間の紛争にようやく決着がついたのである。

 しかし、一件落着のはずであった山論は、1894(明治27)年(日清戦争が始まった年)に再発した。久田見村が突如、伽藍谷の一部180町歩を久田見村領とする所有権の登記をしたのである。

 「そんなこと、あらすか」と怒ったのは、福地の村人であった。話し合いはつかず、久田見村が鍬・鎌・鉈のほかに竹やりまで持ち出して樽洞周辺まで押し寄せ、険悪な雰囲気になった。このことは、私の隣に住んでいた故 谷津金八さんが生前に話してくれたことを覚えている。

 私の記憶によると、故 金八氏は、「日清戦争に従軍し、福地を留守にしていたが、退役した時、久田見村が、福地の樽洞あたりまで竹やり・鍬・鎌・鉈などをもって攻め入ってきた。福地の村人もこれに呼応し、険悪なこととなり、けが人まで出た」と話していた。

 明治の山論は、1899(明治32)年に仲介人(どのような人物であったかは、わからない)の骨折りで、久田見村が、該当地を175円で買うことに決した。ことの初めから数え232年、欅事件から数え86年、江戸神社奉行の裁定から数え76年を要した。

(注)山論の稿は    「切井郷土史」別冊(1988年・安江和夫編)    「福地村の戦争」(2007年・平野屋留吉著)    を参考にした。
2019/08/19 投稿
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