木曽川の舟運について ~木曽川舟運の終焉~

 近代に入っても、木曽川や飛騨川の舟運が果たしていた役割は、近世におけるそれと基本的には変わらなかった。飛騨川流域から出される物資の多くは下麻生湊に、恵那郡や加茂郡から出される物資の多くは黒瀬湊に、土岐郡から出される物資の多くは野市場湊や伏見湊に集められ、黒瀬湊や川合湊などの舟によって下流に運ばれていた。

 小山湊は飛騨川に浮かぶ小山観音の北側にあった。当時は今渡ダムがなかったため、飛騨川の水位は低く、川原には飛騨川が大きくくい込んでいる場所があった。ここが湊になって、長さ7間半、巾5尺5寸の大きさの舟が約80艘出入りしていた。

 大正から昭和の初期にかけては、小山湊の船頭たちは下麻生湊の物資を愛知県葉栗郡草井、中島郡起町に運んでいたという。船頭たちが運んだのは、薪炭や柴、カンメンである。船頭たちは、午前3時には小山湊を出発し、4時間程かかって下麻生湊まで上っていった。そして昼過ぎまでかかって、船に物資を積んだ。物資を積み終わると、舟は水面から3寸ほどしか出ていなかったそうだ。積み終わってから小山湊まで帰ってくると、午後2時から3時になっていた。この日はこれで終わり、下流に向けての出発は翌日の午前3時ごろであった。

 まだ暗いうちから大量の物資を積んだ船で、岩が所々突き出ている飛騨川や木曽川を下ることは、大きな危険を伴っていた。飛騨川や木曽川の様子を知り尽くした船頭ならではの芸当であった。

 送り先の問屋につき、物資を問屋の倉庫に運び込むと、もう夕方である。仕事が終わると船頭は舟に戻った。舟の中には、クドが備え付けられており、鍋やヤカンも持ち込まれていたので、食事の準備をすることが出来た。また、舟の中には寝具も持ち込まれていて、食事が終わると舟の中で寝ることも出来た。そして翌日の3時頃には小山湊に向けて、川を上り始めるのである。  舟には2人の船頭が乗り込んでいたが、目下の船頭は舟の先端に付けた長さ尺2寸ほどの細い麻縄を引っ張って川原を歩き、目上の船頭は舟の舵をとっていた。舟で小山湊に上がってくるとき、今渡や古井の問屋に依頼されて、わずかの手間賃を稼ぐため笠松の問屋から味噌やタマリを、起の問屋からは瓶を舟に積んで来ることがあった。しかし空の舟で上ってくることだけでも重労働であったため、一度に多くの物資を運ぶことは出来なかった。ふつうは味噌1樽を運んでくるのが精一杯であったが、働き盛りの船頭が二人金でいるときは、どうにか味噌2樽を運んできたという。

 耕地の少ない小山の人たちにとって、舟運が生活を支える大きな柱であった。そのため危険が伴う重労働とはいえ、船頭を続けざるを得なかったのである。

 だが昭和12年に飛騨川に川辺発電所が完成し、同14年に木曽川の今渡ダムが竣工されることになると、飛騨川と木曽川を舟で上り下りすることができなくなり舟運は姿を消していった。

転載:柘植成實 著
黒瀬街道

[2019/09/09 投稿]