黒瀬湊の名称

昔は船着場を湊と称し、「港」の字は使わなかった。黒瀬の木曽川の川岸を黒瀬湊と称している資料として、享和元年(1801年)の庄屋文書がある。その文書では「黒瀬之義湊し唱候義慥成義有之候哉御尋御座候、右者給人稲葉右近時時代より願書等にも書上来は只今までも名古屋御船方御役所へ黒瀬湊と書上来り申候外に申候外に慥成義当書上見不申候仍之御達申上候」とあり、同2月には庄屋から錦織方御役所へ差し出している。

 ところがここに黒瀬から伊岐津志に至る渡船場が随分古くからあった。

 「渡場」と言って、「湊」と言う者は無く役場の帳簿にも「川岸場」と書かれ「お湊」と称するのは錦織の綱場をさして称した。それが明治時代における通用語であった。

 黒瀬湊の由来については、寛永12年頃稲葉右近時代に舟数24,5艘とあり、愚堂国師年譜に、「同国師60歳の時、同13年(1638年)京都に赴くのに桑名まで船で行かれた」としるしてある。これより以前の乗船史料は未だ発見されていないが、錦織綱場の歴史が明らかになっているに鑑みて、黒瀬湊の由来もかなり古い時代まで遡ることができると思っている。

 「汎八百津」(昭和8年12月可児桝太郎著)によると、寛文5年(1665年)頃、長良福光と杉山某という人物が黒瀬湊を根拠として鵜飼船による水運を開始した。それによって木曽川の利用は益々多くなった。杉山某の俗名は分からないが、彼の戒名である「能信軒仏海玄性禅定門」が貞享元年(1684年)4月12日に卒したとの石碑が字大島にある。

 この説は記録によるものではなくて伝承をまとめたものであって、杉山某は黒瀬湊の開始者とするにはあまりにも時代が新しすぎると思われる。今後由来については研究する余地があるが、ここでは由来を論ずるより、この湊から船がすぐ姿を消し、船頭が陸に上がったのが問題である。下流和知と兼山の間にダム工事が着手せられ、昭和18年12月に完成した結果、木曽川の川成が全く変わった。それより以前には今渡の発電所が昭和11年3月に着工されていた。これらの変化によって、船は川を下ることができなくなり、湊は水底に没して長い歴史を有する黒瀬船の舟運の幕は閉じられた。当時は失業保険の制度などなく、船頭はやむを得ず転職する外に道はなかった。

[2019/09/09 投稿]