~木曽川の舟運の歴史~

 木曽川は、全国有数の山林資源である木曽、裏木曽からの材木輸送に欠かせないものであり、その究明が大いに進められていることは周知の通りである。

 飛騨の山林資源も、南半は飛騨川、木曽川による輸送をもって活かされ得たといえるものであった。伊尾川、長良川も共に木材採運に果たした役割は大きい。

 また領主の収取する大量の本年貢、小物成が、三水系を利用して桑名へ運漕されるなど、その舟運は欠くことのできないものであった。

 この様な運材、廻米など領主経済に枢要なものとして整備、保護された河川水運の気候が、次第に発展してきた農民的商品の輸送も担い、遠隔地との流通に大きな役割を果たすに至った。それに伴い、領主の庇護を受ける特権的な水運機構に対する抗争が、農民的商品流通を背景として展開された。

 かかる問題について美濃三水系の水運について検討し、農民的商品流通についてみていきたい。

 木曽川水系においては、兼山湊と黒瀬湊の紛争があげられる。兼山は大斉藤大納言正義が築城して以来、木曽川上流の要地となった。天文8年の正義画像明叔讃に「船之往還市中之聚散」とあって、既に舟運の発達を示している。

 永禄8年には森三左衛門可成が入って、城下町として整備し、市も立てたようで町は賑わっていた。

 天正12年、秀吉は小牧、長久手の戦いに際し出水時の渡河に備えて、兼山から犬山間の舟を悉く寄せるよう森武蔵守可成に命じている。兼山には相当数の舟があったと思われる。

 慶長4年、森忠政が信濃国川中島に増封されて移動となり、犬山の石川備前守光吉に兼山の支配が移るにあたっては、兼山への掟書に「市の儀可爲如前々」と定め、前代以来の市を保護した。

 かかる兼山まちは、関ケ原戦後、家康一幕府の戈入地となり、元和元年尾張領に編入されたが、この地域の商業の中心として発展した。

 妻木雅楽頭直頼が、兼山のさぬきや堤勝以から桧鋸板等や茶を買い付け、岡田将監善同も、二郎右衛門から酒、きのこ、松茸、材木、板等を買い付けしており、明暦2年美濃国尾張領覚書には「1ヶ月に6度の市有」とあって六斎市が開かれていたことも知ることができる。

 兼山から積み出される船荷物には、兼山まちの喜佐衛門、下渡村の次郎左衛門戈市郎が立会で改め、役銀を徴収して喜左衛門から錦織役所へ納入し天和3年には舟1艘につき10文10銭が役銭にとして徴収されていた。

 塩問屋は塩を上せて後背地苗木領の山間の村々へ手広く販売し、塩役銀39文5分を上納した。

 そうして近世初期においては兼山は商業の中心として、舟運の発達もみられたようであるが、中期に至って次第に衰退に向かっていった。六斎市は享保年代に中絶して享保14年に再興を許されているが、以前の賑わいには戻らなかった。

 細目村の黒瀬は、木曽川遡行の終着地であり加茂、恵那、両群の山間村を後背地とし、次第に兼山に代わる発展を見せた。細目は木曽川西古道にあって、古くは交通の要所でもあった。

 室町期にはこの地域に市場のあったことが大仙寺文書によって確認され、武儀郡汾陽手寺も細目で樽200枚を買得している。

 天正18年に秀吉から木曽代官に任用され、木曽川、飛騨川の支配をも委ねられた石川光吉は、錦織、太田、麻生とともに細目は木曽材川下げに大きな役割を果たしたのである。

 舟運も次第に発達し、寛永12年には24~25艘の舟があり、領主である尾張藩家臣稲葉氏の名古屋屋敷へ年貢米をはじめ薪炭、竹木など諸物資を川下した。

 大脇、勝山の3艘、下古井の2艘に比べてはるかに多い。かつて栄えた兼山湊の4艘に対しても圧倒的に多いことは、当時衰退に向かいつつある兼山に対し、黒瀬湊が商業の中心地として、その地位を奪いつつあることを示している。「濃州徇行記」によれば、細目の本郷から黒瀬にかけて、タバコ、炭、薪、板類、糸、木綿、塩、味噌、竹の皮、材木、白木などの承認が炭、黒瀬は139軒より家数が多く170軒あって町並みを形成し、白木問屋が2軒、商荷物問屋が2軒あった。

 木紙は細目村をはじめ苗木領、信濃から買い集め、岐阜、上有知へ販売し、尾張の丹羽郡、上軒、信濃、飛騨から繭を仕入れて糸にひき、関、岐阜へ送り、材木、白木、板類、薪炭も買って苗木領から名古屋、笠松、桑名へ運漕した。その他岩村藩の蔵米、小売米も川下げした。へたか船、ささ船、かみそり船などと称された10石積の鵜飼船の類であった。

 寛政11年には延3189艘が川を下り、細目役所が徴収する木類の端荷の役銀だけでも680匆に及んだ。船の上下日数を考えれば1日平均20艘前後の船が川を下ったのである。役銀は元禄7年から賦課されるようになり、享保4年庄屋家各務勘兵衛に、問屋宅を役場として業務を執らせ、13年に勘兵衛の特畑に役場を建てて細目役所とした。

 鍛冶屋炭、煽炭、紺屋炭、樫木、鋸板、割木など1艘分単位は錦織役所、諸荷物は細目役所で役銀を徴収した。10銭役は兼山と同様であった。

 元禄7年以降役銀が課され始めたのは、当時船運が盛んとなっていたからであり細目役所の設置もその反映である。

 こうした兼山村及び同舟運衰退と黒瀬湊の舟運の発展は、塩販売をめぐる紛争を惹起した。兼山村から小物成として塩役銀39匆5分を上納していることは先記の通りで、中世末、近世初頭から兼山湊の舟運よって加茂、恵那両群の山間地へ塩が運漕されていたが、黒瀬の舟運発展に伴って黒瀬を経て奥地へ運ばれる塩が増加していた。宝歴8年兼山の塩問屋山本藤九郎が、天正5年森武蔵守長可の認可による、その領内75,000石の塩問屋を主張して、黒瀬へ着ける塩1俵につき1升の塩の口徴収を藩へ請願した。兼山の塩問屋は初め久右衛門と久左衛門の両名であったが、その後藤九郎が久左衛門の株を買って出店。庄右衛門に塩問屋を営業させていた。藤九郎の提出した森長可の証文は紙質、筆も当時のものでなく、書式、文言ともに後年の手になるもので原本の写しとも言えないのであるが、藩は藤九郎の主張を容れて兼山より川上への登塩1俵につき1升の塩の口銭を藤九郎へ納入するよう命ずるに至った。

 この事態に、細目村、黒瀬の反対運動が展開されるのは必至であった。細目村商人惣代次郎九郎ほか13名、黒瀬船持惣代円三郎ほか8名、細目村惣代3名、庄屋各務勘兵衛が連盟して、

◇旧来より黒瀬の登塩には何ら障害がなかったこと

◇塩の口銭賦課によって塩の値段が高くなり、黒瀬の登塩にかわって加茂郡の山間地へは、飛騨川の麻生、米田辺りから塩が入り、恵那郡などの奥地へは中山道の下街道を経て中津川から塩が持ち込まれるようになっている。そのため兼山の収益も薄く、塩販売による山間地への取引減少で黒瀬の舟運も衰退している。そうなっては錦織湊の詰船役、船役銀などの負担も困難となること

◇黒瀬へ出荷して船積している薪炭その他の荷物について、兼山へ持通して船積するように久田見村などへ掛け合って、黒瀬の湊を潰そうとしていること

などを訴えて、新儀の塩の口銭廃止を懇願した。

 細目、黒瀬の商人は下流の笠松、円城寺などの問屋から、二季借り、あるいは薪炭その他山間村々から集荷した山荷物と交換する方式によって、塩を仕入れていたのであり、塩の口銭の新設に伴い塩販売の不利な立場に置かれることは山荷物の集荷の減少、舟運の衰退を招来するものであることは明らかである。久田見村を拠点とする加茂郡山間村と、奥筋恵那郡山間村を背景とする細目、黒瀬を中心に展開している商品流通に大きな阻止的要因となるものであった。

 藩は細目、黒瀬の商人、船持、さらに小駄賃持の者など加わっての請願を容れて、塩の口銭取りの新設を中止した。

 しかし享和元年兼山村の藤九郎は再度1俵につき1升の塩口銭徴収認可の嘆願に及んだ。細目村商人惣代20人、黒瀬船持惣代6人、組頭惣代3人、庄屋各務勘兵衛の30人は連判して、宝暦8年と同様の願書を提出し、久田見村百姓惣代4人、組頭惣代3人、庄屋平治も連名で連署し願書を提出した。久田見村の願書によれば、黒瀬から船揚された塩は苗木領30ヶ村、幕府直領3ヶ村、尾張藩40ヶ村余の村々に送られ、農間余業として1俵ずつ背負い販売している者も多く、久田見村には中継地として塩の販売、山荷の集荷を営む商人がいたことが解る。塩の販売先は北は加茂郡水戸野、和泉、小原、遠くは加子母、付知、川上の裏木曽3ヶ村にまで及んだ。山荷持は薪炭のほか、タバコ、こんにゃく芋、荏胡麻、楮などである。錦織地方役所は藤九郎の再度の嘆願を認めようとはしなかった。そのため、藤九郎は文政年間に塩問屋株を喜三郎に売却したが、喜三郎も天保5年にはその株を手放す有様であった。

 他に収益を求めざるを得なくなった藤九郎は、翌享和2年、兼山から大井、中津川、妻籠までの通し馬許可を出願した。兼山から塩を運び、信濃、東国から諸荷物を金山へ駄送し兼山から船積しようとする企画で、兼山における荷物問屋を兼ねたいと言うものであった。

 当時、伊奈街道、中山道を経て名古屋へ輸送されるものが多く、かつて信濃、東国の諸荷物を兼山経由で川下げしていた経路を再興しようと考えたのである。しかし商品流通路から隔てられた兼山は昔日に戻らなかった。

 寛政7年当時1,250石の酒造米高を有し、江戸或いは伊勢へ300~400石船積していた藤九郎の次男増四郎は、享和元年には仕込み僅か32石に激減し、文化5年には酒倉を売却して水車渡世となっている、山本藤九郎の衰退は、兼山の事態をよく示すものである。

 以上、木曽川の兼山湊と黒瀬湊を中心として、木曽川水系の舟運について史実に基づいて列記してみた。

 領主の城下町として、領主の手による市場、運輸機構が整えられた兼山町が、城下町の機能を喪失した後も東美濃の商品流通の拠点として重要な役割を果たしていたが、更に上流の黒瀬が恵那、加茂両群の広い山間地を後背地として繁栄し、その役割をとって代わろうとした。この両湊の興廃は塩販売をめぐる紛争を惹起しているが、一般的に川湊は後背地へ塩を供給する役割を有しており、山間地との商品流通に塩が需要な媒体をなしていることが知られる。

 農民的商品流通の発展にともなって起きた問題について、多少解明したとは言え、どの様な商品がどれ程の量で、どの時期にどの経路を経て、どこ迄運送されたか多くは詳かではない。舟運の機構についても、問屋の性格も究明すべき問題として残され、陸上運輸、特に脇道の商品流通との関連も追求する必要がある。今後これらについて、さらに多くの考察を加えなければと思われる。

転載:柘植成實 著
黒瀬街道


[2019/09/09 投稿]