旧跡 錦織綱場
錦織綱場の開設年代は鎌倉時代に起源すると言われ、足利時代の永正年間には、錦織村河上綱場、筏場の両役所があって通関及び使用料を取り立てていたという記録がある。 この綱場が、本格的に運用されるようになったのは、尾張藩が木曽の山林及び木曽川の運材の権利を領有するようになってからであり、寛文五年(一六六五年)には、ここに地方役所が設けられ、奉行以下役人百三十八名が常駐していた。 木曽の山から伐り出された材木は、一本一本木曽川を狩り下げ、ここで初めて筏に組まれ、犬山・名古屋方面へと流送された。 年間三十万本もの単材が筏に組まれ、通常秋の彼岸から春の彼岸まで筏流しが行われた。 ……more >>

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福地の水車小屋
福地は、500~600メートルの高原であるにもかかわらず、村内には豊富な水が絶え間なく流れる小河川が何本も流れている。これら小河川は、水田の灌漑用水と利用されているのは当然であるが、そのほかに水の落差を利用した水車小屋が各所にあった。水車小屋は、通常、玄米から白米にするための搗精を中心として、米粉や穀物の皮取りなどをする大事な作業小屋があった。川をせき止め、取水口から水路を作り、一定の落差(約三メートル)ができたところに、小屋を建て水車を回した。そして、車軸にカムギアを付け、水車の回転運動を上下運動に変換して、樫の木で作った直径一五センチくらいの「突棒」が、石臼の中心に落ちるようにセットして……more >>

房姫様物語⑪
https://youtu.be/WDJODVqD4fc 檀家の人々はみな「よね」の働きぶりに関心し、「庵を建てたらどうだろう」と相談するようになりました。「よね」がそれを聞いて驚き、「私にはそんなお金はありません」と言って断ると、「そんな心配はいらない。檀家のみんなで建てるから」 檀家の人々は柱一本、ワラ一束と持ち寄って宝蔵寺の東隅に庵を建てました。正面には「よね」が奈良の徳行寺を出るときにもらってきた観音様を本尊とし、他の仏具は宝蔵寺よりもらってきた物で形を整えました。庵は「慈草庵」と名付けられ、近くに1本の山桜が植えられました。 「よね」は宝蔵寺脇の尼僧として働くように……more >>

房姫様物語⑩
宝蔵寺は奈良の徳行寺と同じく禅宗の寺でしたので、ヨネには要領がよくわかっていました。朝のお経もとても上手にあげて、和尚さまを驚かせました。「あなたの都合もあるだろうが、しばらくこの宝蔵寺にいて手伝いをしていただけないだろうか」和尚さまはヨネにそうもちかけました。 「まだ二十巻ほど納礼をしなければなりませんが、その後ならよろしゅうございます。」和尚さまはこれを聞いてたいそう喜びました。 ヨネは宝蔵寺を出て東農方面をめぐり、大任を果たして宝蔵寺まで無事に帰ってきました。その翌朝から手伝いをするようになりました。宝蔵寺は檀家も多く、法要や葬儀など、和尚さまは大変忙しいのでした。……more >>

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黒瀬街道とは
 黒瀬街道とは、八百津黒瀬湊から恵那市福岡町、苗木城下を結ぶ約40.57km、幅約2mの昔の幹線道路です。蛭川、中野方、福地、久田見の各村では、中央部を貫いて大変利用度が高い生活道路でした。そのため、明治から昭和の初めにかけて、各村々毎に改修工事なども行われて維持されてきましたが、最近の車社会の発達により、幅広い道路が要求されるようになり、現在では、廃道になり、利用する人もない状態となっています。荒れるがままに山林原野化し、雨水の流れも岩肌をむき出して、草木が生い茂って、昔の栄華の道も現在では、獣道と化しています。かつての昔の重要生活道は、今や消滅しようとしており、この道を歩き、馬の背に荷物……more >>

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山論の舞台・長曽橋
 福地村と久田見村による山論は、尾張藩の久田見村VS苗木藩の福地村、犬地村、上田、飯地、中野方、切井、黒川、赤河及び蛭川の9村連合であった。  山論の舞台は、福地、犬地両村の土地であったが、苗木藩の7村が加わったのは、福地村長曽にあった長曽橋(古くは「中瀬橋」と称した)が絡んでいた。長曽橋は黒瀬街道の長曽川に架橋された要衝であり、福地村庄屋・辻市左衛門正倚宅から約100mほど下流に位置し、現八百津町内で一番古い橋とされている。長曽橋がいつごろ架橋されたかを知る史料はないが、戦国時代の細目村黒瀬(現八百津町)から、この長曽を通り苗木の9村に通じていた。  架橋時期の一説には、1635(……more >>

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福地村と久田見村の山論2
 福地村と久田見村の山論上訴の背景には、久田見村が尾張藩をバックとして勝てるとの思いがあった。当時の尾張藩は60万石、対して苗木藩は1万500石である。  神社奉行所の裁定は、1823(文政6)年に下された。それは久田見村が主張する、油草・樽洞・伽藍・伽藍谷など8字は、福地村領とするものであった。現在の福地村の約2分の1に当たる面積である。  ただし、久田見村は、伽藍谷の一部200町歩(200ヘクタール)は100年間、福地村から借りることとした。これが後々問題を起こす原因となった。  裁定は、1813(文化10)年欅事件から1823(文政6)年までの10年を要した。1667(寛文……more >>

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福地村と久田見村の山論1
 福地村・犬地村(苗木藩)と久田見村(尾張藩)の山論は、江戸幕府までを巻き込んだ一大紛争であった。それは、大尾張藩と極小苗木藩の入会林野の領地紛争(境界争い)である。  幕藩体制が確立してくると、年貢完納は絶対命令となってきた。化学肥料がなかった時代の水田稲作の肥料は、人糞尿や牛・馬の厩肥のほかには、採草林からの木草に負うところが大きかった。年貢米を完納するためには、水田に施す木草が必須の条件で、領民にとっては木草の確保が米の収量に比例し、死活問題であった。木草を調達する山林は、村人にとって大切な調達場所であった。  福地と久田見の村境(苗木藩と尾張藩の藩境)をめぐる山論は、苗……more >>

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河川輸送の基地「黒瀬湊」
木曽川を遡る船着き場としての黒瀬湊の起源を明らかにする確かな史料はないが、伝えられるところによれば、木曽・飛騨両川の合流以奥の木曽川の水面には、幾多の奔流急淵があって、それに増し河身は随所に屈曲し、波浪甚だしく、古来より舟行不能の個所として、舟行を試みたものが無かった。 元和年間(1615~23)になり木曽山が尾張領に入り、寛文五(1655)年に材木湊が下流の牧野(現美濃加茂市牧野)より、上流の錦織に移されることになった。そのころ長良川筋において水運に熟達し西濃長良荘上福光の杉山某が、この木曽川上流の水運を開発しようと試みて、自己の乗用していた鵜飼船で楫子を引き連れ、木曽川を 遡江して黒……more >>