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木曽山の林業労働
木曽山での林業労働者は、作業によって、「杣」「日用」に大別される。杣は産地での伐木・造材専業夫であるが、江戸中期の頃から「小杣」を分岐し、小杣はもっぱら造材を受持つようになった。運材専業夫の日用ももとは杣の兼業であったが、木材の彩運量が増すにつれて杣から日用が分化し、日用は木造りのすんだ材木の谷出し(山落し)から、小谷狩(木曽川本流までの運材)を経て木曽川本流を錦織綱場まで流送する「大川狩」までを担当するようになり、その頃から杣・日用共に、一人の組頭に統率される組織労働者としてそれぞれの作業に従った。木曽山で稼働する杣・日用の多くは王滝村を中心とする山間部の住人であったが杣組の中には裏木曽三……more >>

旧跡 錦織綱場
錦織綱場の開設年代は鎌倉時代に起源すると言われ、足利時代の永正年間には、錦織村河上綱場、筏場の両役所があって通関及び使用料を取り立てていたという記録がある。 この綱場が、本格的に運用されるようになったのは、尾張藩が木曽の山林及び木曽川の運材の権利を領有するようになってからであり、寛文五年(一六六五年)には、ここに地方役所が設けられ、奉行以下役人百三十八名が常駐していた。 木曽の山から伐り出された材木は、一本一本木曽川を狩り下げ、ここで初めて筏に組まれ、犬山・名古屋方面へと流送された。 年間三十万本もの単材が筏に組まれ、通常秋の彼岸から春の彼岸まで筏流しが行われた。 ……more >>