コース内容
錦織綱場 [エリア01]
錦織綱場の開設年代は鎌倉時代に起源すると言われ、足利時代の永正年間には、錦織村河上綱場、筏場の両役所があって、通関及び使用料を取り立てていたという記録がある。
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黒瀬湊 [エリア02]
舟と馬が行き交ったまち――八百津の「舟運」と「黒瀬街道」
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舟運で栄えた八百津 [のんびりまち歩き]


 

 

山の仕事人たち──「杣」と「日雇(ひよう)」って?

林業を仕事にしている人といえば、「きこり」を思い浮かべる方が多いかもしれませんね。 でも、実は昔の日本では、そうした人たちのことを**「杣(そま)」**と呼んでいました。 そして、この杣の仕事は、やがて**「杣」と「日雇(ひよう)」という2つの職種**に分かれていきます。

「杣」は木を切り、「日雇」は運ぶ

杣は、山の中で木を伐採したり、枝や皮を取り除いて**丸太に加工する「造材(ぞうざい)」**という作業を専門にしていた人たちです。 江戸時代の中頃からは、この造材の仕事がさらに細かく分かれ、造材だけを専門にする「小杣(こそま)」も登場しました。 一方、「日雇(ひよう)」は、丸太になった木材を運ぶ専門職。 もともとは杣が自分でやっていたんですが、流通する木の量がどんどん増えていくにつれて、運ぶ役目だけを担う日雇が生まれたんです。

木はどうやって運んでたの?

日雇の仕事はこんな流れでした:

  • まずは切り出した木を谷まで引っ張っていく「谷出し(山落し)」
  • それを支流から木曽川の本流まで流す「小谷狩(こだにがり)」
  • そして最後に、本流を通って錦織綱場(にしこおりつなば)まで運ぶ「大川狩(おおかわがり)」

こうして木は、山の奥から川を使ってどんどん下流へと流されていったんです。

杣と日雇、それぞれの“働く季節”

杣は、初夏の「八十八夜」(5月2日頃)に山へ入って、まずは宿泊用の山小屋づくりからスタート。 小屋が完成したら、いよいよ本格的に伐木(木を切る)と造材に取りかかります。 そして**秋分(9月22日前後)**ごろには、その年の作業を終えるのが一般的でした。 一方、日雇たちは、その間も自分たちで運材施設を作って準備を進め、杣が下山したあとに本格的な運搬作業に入るという形でした。

八百津の山仕事と「杣沢」

八百津町の山あいでは、ふだんは薪や炭作りがメインの山仕事。 でも、冬になって畑仕事が少なくなると、民間向けの木を伐って、旅足川(たびそこがわ)から木曽川へと流す仕事が行われていたそうです。 ちなみに、八百津にある「杣沢(そまざわ)」という地名。 これは、こうした杣の人たちの仕事に由来していると言われています。 まさに、山とともに生きた人々の足跡が地名にも残っているんですね。

まとめ

今でこそ林業と聞いてもあまり身近に感じないかもしれませんが、昔の八百津では、木を切る人、運ぶ人、それぞれが分担しながら、自然の力をうまく使って生きていたんですね。 を切る「杣」、運ぶ「日雇」、どちらも大事な役割を果たしていた“山のプロフェッショナル”でした。 林業を生業とする人たちといえば「きこり」を思い浮かべますが、彼らは近世まで「杣 そま 」と呼ばれ、作業内容によって「杣」と「日雇」に大別されていました。 杣は産地で木の伐採と造材(伐採した木の枝と皮を山中で取り除き丸太に加工すること)が専業でした。 江戸中期の頃からは造材の仕事が分かれ「小杣」がそれを受け持ちました。 日雇は造材された丸太の運搬業で、もとは杣の兼業でしたが、木材流通量が増えるとともに分業化され生まれた仕事です。 彼らは造材された木を谷へと運ぶ「谷出し(山落し)」、支流から本流まで運ぶ「小谷狩」を行い木曽川本流を錦 にしこおり 織綱場まで流す「大川狩」までを受け持ちました。 杣は初夏の八十八夜(五月二日頃)に山入りして宿泊施設である山小屋を設営してから作業にかかり、秋分(九月二二日前後)頃にその年の伐木・造材作業を完了。 いっぽう日雇は併行して自らの手による様々な運材施設を利用し、山出し作業を行いました。 八百津山間部のふだんの山仕事は薪や炭作りが中心でしたが、畑仕事の少ない冬季は民間材を伐木・造材し、旅足川から木曽川に流す仕事をしていたそうです。 今に残る「杣沢」という地名はそこに由来すると考えられています。

【参考・引用】 「木曽式伐木運材図会」 監修・解説 所三男/財団法人林野弘済会長野支部
岐阜県八百津町山村エリア活性化支援サイト
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