
木曽川を利用した水運と、黒瀬街道などの道を使った陸上交通を中心に発達した町
八百津(やおつ)は、木曽川(きそがわ)の上流で切られた木を筏(いかだ)に組む、大切な場所でした。
また、木だけでなく、いろいろな商品がやりとりされる「交易(こうえき)」の町としてもにぎわっていました。
「錦織湊(にしこおりみなと)」は、江戸時代になると木材を集めたり、筏を組んだりする場所として発展しました。
ここには「尾張藩(おわりはん)」の材木を管理する役所も置かれていました。
一方、「黒瀬湊(くろせみなと)」は、木曽川舟運の中でももっとも上流にあった湊(みなと)で、商業の町として栄えました。
今の「八百津町本町通り(ほんまちどおり)」にあたる道には、昔からたくさんの店や問屋(とんや)が並び、定期市(ていきいち)も開かれていました。
この通りは、黒瀬湊から北に向かって伸びる道沿いにあります。
徳川時代の元禄(げんろく)のころには、舟運の発展とともに「八百津だんじり祭(やおつだんじりまつり)」も盛んになり、
人や物、お金が集まり、町はとてもにぎやかで豊かな時代をむかえました。