※この記事では、むずかしい専門書に出てくる内容を、ブログらしく読みやすい形に書き直しています。林業の歴史に詳しくない方も、ぜひ気軽に読んでみてください。
舟と馬が行き交ったまち――八百津の「舟運」と「黒瀬街道」
かつての八百津町は、ただの山あいの町ではありませんでした。 木曽川上流で伐採された木材を筏(いかだ)に組む重要な場所であると同時に、さまざまな商品が行き交う交易の拠点でもあったんです。 川を使って物を運ぶことを「舟運(しゅううん)」と言います。 当時の八百津は、まさにこの舟運の要所。木材だけでなく、山で採れた特産品が次々とこの地に集まり、川の流れに乗せて全国へと送り出されていました。
山の幸を運ぶ道――黒瀬街道
山国からの物資はまず、人や馬に背負われて黒瀬街道を通り、途中の**久田見(くだみ)という中継地を経て、最終的に黒瀬湊(くろせみなと)**へと運ばれていきます。 この黒瀬湊から舟に積まれた荷物たちは、川を下って尾張方面など各地へと届けられていました。 ちなみに、舟に積める荷物の重さは**約460貫(約1,725kg)**にもなったそうです。 荷の中身はというと?? 炭、薪、氷、木材、こんにゃく芋、お茶、生糸、雑穀など、当時の人々の生活に欠かせないものばかりでした。
黒瀬街道とは?
黒瀬街道は、八百津町の南側、木曽川にあった黒瀬湊を起点とする古い道で、恵那方面へと続く幹線道路でした。 その長さはおよそ40.57km。八百津町の福地から久田見を通り抜けるこの道は、生活道路としてもとても重要だったんです。 舟運が本格化したのは、寛文5年(1665年)ごろのこと。 そこからはさらに物流が活発になり、
- 山の物は黒瀬湊へ
- 舟で届いた尾張などの品は山の方へ というふうに、東西南北に物資が行き交う大動脈として、黒瀬街道はにぎわっていきました。
ダムの建設と「舟運の終わり」
そんな長い歴史を持っていた黒瀬湊と黒瀬街道ですが、昭和18年(1943年)、八百津町の和知と兼山に発電用のダムが建設されたことで、大きな転機を迎えます。 ダムの完成により、黒瀬湊は川の底に沈み、長年続いていた舟運の歴史にも幕が下りることになりました。 それと同時に、黒瀬街道を行き来していた馬の列も姿を消し、鈴の音を響かせていた往来は、静かにその役目を終えていったのです。
今に残る、ほんの少しの“面影”
いまでは、黒瀬街道の姿をたどることができるのは、ほんのわずかな区間だけ。 でも、その細道に立ってみると、かつて馬の列が行き交い、人の声と木材の音が響いていたにぎやかな時代の空気が、ふっと感じられるかもしれません。 歴史の表舞台からは消えてしまった舟運と街道。 けれどその流れは、今も八百津の暮らしの土台として、しっかりと根を張っています。
参考文献 「福地 昔の物語」 発行人:今井貞夫 「久田見の昔をかたり伝えて」青柳史跡会 詳細はこちら 岐阜県八百津町山村エリア活性化支援サイト やおつまるごとPR YAOYSU MALL https://yaotsu-mall.com