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黒瀬街道~うま吉編~

やぁこんにちは!!

ボクは黒瀬街道で荷物運びをしていた、馬の馬吉です。

今日はね、ボクが仕事で通っていた黒瀬街道を紹介するね!

黒瀬街道はね、八百津橋たもとにあった「黒瀬湊」を起点として、苗木、苗木城下までを結ぶ全長約40kmの道幅約120cmの生活道路。人や馬の往来も多く、物資の輸送により、苗木領の人々や各村を支えた大切な道路なんだよ。

 ただね、車が登場してからというもの、幅広い道路が必要とされたから、黒瀬街道は廃道となってしまったんだ…

 ボクね、毎日通っていたから、街道にあったお地蔵さんの数や、木の本数だって覚えてるんだよ!それにね、距離を測りやすいように一里塚も設けられてたんだよ。そういうのを、覚えている人も少なくなってきたなぁ

 ボクは今回「黒瀬街道」って紹介したけど、住んでいる地域によって呼び方が変わるんだ!

恵那地方の人は「黒瀬街道・黒瀬道」って言うし、久田見地方は「善光寺道」。八百津の一部の人たちは「苗木道」って。まぁ行き先によって、呼び方が違うみたい。

 1665年頃(徳川4代将軍家綱公の時代)木曽川の水運が始まったから、

ボクの仕事は、湊周辺の山の中の村の産物(炭、薪、木材、お茶、生糸など)を沢山背負って、湊にもっていくんだ。そこで、荷物を降ろしたら、ボクの仕事はお終い。じゃないんだ。

今度は木曽川で運んできた、尾張地方の特産品(油、魚、塩、砂糖、衣類、金物など)が久田見が湊につくから、それをまた、各村に運ばないといけないんだ…なかなか大変だったよ。

 黒瀬湊が出来てからの久田見村は、黒瀬湊と各村の中継地として、物資の配送などにあたっていたんだ。だからね、久田見村だけでボクの友達の馬は150頭以上いたよ。

 だからね、運送していくときは、列になって向かうから、長い道のりでも、みんなでお話ししながら、向かうことが出来たんだ!!

 久田見村の中心は、中盛(久田見郵便局あたり)・松坂(白髭神社あたり)あたりだったかなー

あそこには問屋(卸売業者)があったから、宿泊所や、飲み屋、遊技場などがたくさんあって、人がたくさん集まってた!

だからね、ここら辺は、山村には珍しい町が形成されていたんだ。

 久田見村は、重要な交通の要所として大いに産業の発展に貢献したんだ!

久田見村の小百姓さんも農業がお休みの時期は、お駄賃がもらえるから一日二回くらい黒瀬湊に往復する人もあって、一日中にぎわった街道だったよ。

もう、黒瀬街道の面影は、ないけど、栄えた道なんだ。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語06

よねは、弟を背負って寺の境内の掃除をした。落葉の清掃は子供にとって大変な仕事だが饅頭を喰った罰として自分から言い出したので、えらくともやらねばならぬと心に決め、実行する”信”の強い少女で有った。

その後は境内ばかりぢゃなく和尚様の毎日のお勤めの準備なども手伝う様になり、お経も何時とはなしに覚えてしまった。時々字なども教えて貰って若干は覚えた。それから数年立ち檀家の法要より葬儀などにも和尚様と一緒に行くようにもなった。

或る時徳行寺の壇徒総代の人が寺に来て『大磐若経六百巻』奈良六十六ヵ所に納むる人が誰かいないか探して居る話を和尚様として居るのを耳にした。 大磐若経六百巻 のお荷を各地六十六ヵ所に約六十日かけて納経する仕事でこうした人を六部と略して云う。

和尚様は「誰かないかなあ」と思案して居たが「そうだ”よね”にすすめて見よう」と思いつき、お鉢が遂によねの処に廻って来た。
よねは、心配だったが引き受けた。行ったことのない旅の空、今晩泊まる所もない。田圃の小屋でも炭小屋でもいい、夜露だけ凌げればいいのだ。

食べ物は行く先々で乞えばよい。和尚様は本尊の脇に有った観音菩薩様と丸い磨かれた石の玉を呉れた。
檀家より旅の安全が守られる様にお金と刀渡り約五、六寸の短刀を戴いた。旅で短刀の出番が絶対無い様にと祈り乍らも護身用として懐に、黒装束、蓑笠、手甲、却袢、わらじ、背中には背負櫃で大磐若経のお荷、観音様、丸い石、若干の下着なども入れて旅廻りの準備が出来ていよいよ明日より六十日位の旅立ちで有る。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語05

「お~よね」‥…「昨日、私の留守に佛様の饅頭を黙って喰ったのは、よねか」
「はい」「饅頭を喰いたいのは解るが、佛様の物を黙って喰ってはいかん。喰いたければ私に饅頭を下さいと何故云わなんだ。まして黙ってとった上、指でアンだけ喰って外の側だけ佛様にお供えするとはけしからん」

よねは堪えて居た涙と声が一気に噴き出し堰を切ったように泣き出した。
背中の弟も泣き出した。「和尚様ご免なさい」と一心に断り、「これからは絶対人の物に手を出しませんから許して下さい。」と懸命に断りやっと許しを得た。

和尚様は「解ればいい解ればいい」と云って佛様にお供えして有った”ういろ”を一個呉れた。

和尚様の前で堂々と”ういろ”を口にした。
大きな饅頭のアンと小さな”ういろ”の一切れは本当に旨かった。

『明日から饅頭を黙って喰った罰として三、四日、寺の境内を掃除しよう』よねは思った。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語04

饅頭でポンポコポンの腹に夕食など喰える筈もない。
偽病も大変で有る。母は心配してお粥を作って来て「喰え」と言って置いて行ったがお粥などは喰う気にはならず布団をかぶって居ると「腹が痛くてお粥も喰えんでは」と言って今度はセンブリの煮詰めたものを呑めと云って寝床へ持ってきた。これは苦くて苦くて呑めるものではない。(センブリとはトウ薬のせんじた漢方薬で有る)昼は甘い饅頭を腹一杯、今夕は苦い苦い「トウヤク」のせんじ薬を、腹痛を演じた偽病も大変な大芝居で有る。

知らぬうちに寝て目が醒めたら朝になって居た。今日はまた和尚様がどんな顔をして怒るのか…心配でならない。
今朝も弟を背負って寺へ行った。和尚様は朝のお勤めが有るので、お供えから掃除など忙しく働いていた。昨日の饅頭はもう無かった。

和尚様のお勤めの準備も終わり、これからお経が始まる時和尚様は「オイよね、ここへ来て私と一緒にお参りをしなさい」と云うので和尚様の後に弟を背負ったままチョコンと正座して小さな手を合わせた。

何時和尚様の神雷様が落ちるのかと心配で心配で朝のお勤めも上の空。
お経も終わり和尚様は静かに話し出した。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語03

遂に佛様の饅頭によねの手が伸びた。この方法ならば和尚も知らないだろう。
上重ねの一個を貰い、寺の階段に尻を据え、人差し指にて中味の”アン”を上手に穿って外側の白い皮を型がくずれぬ様に大きな饅頭を喰って背中の弟にも二、三回指で食べさせた。
そして何食わぬ顔で外側の白い部分を佛様お供えしておいて元の位置に戻して日も暮れかけたので家へ帰った。

生まれて初めてこんな旨い物を腹一杯喰ったはいいが、佛様の罰が当たらねばいいがと心配に成って来た。
明日は和尚様から大目玉が飛んで来るかも知れぬ。もう喰ってからではおそい。子供の腹に大きな饅頭のアンを腹一杯つめこんだので腹が張ってえらくて早々に布団に潜り込んだ。

日が暮れて夕食時に成っても起きて行かぬので心配した母が「よね、どうした」と聞くので「夕方から腹が痛い」と答えた。

真っ赤な嘘の仮病である。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語02

今日もよねは弟を背負って寺の境内で遊んで居ました。
ふと沸様の祭壇を見ると大きな饅頭が一重ね、お供えして有る。これを見たらよねは喰いたくて 喰いたくて 喉から生唾を呑んで、何とか上手に貰って食べられないかを勘考する。

今までこんな饅頭など喰ったことが無い。
「こんな饅頭を腹一杯喰ったら旨かろうなぁ」

それ以外は何も思わない。
今日は近くで葬式があるらしい。
和尚様が寺を出るのは昼前の頃だろう。その時を見計らって 沸様の饅頭を貰うことにした。

でも和尚様に許可も無く貰ってもいいだろうか。
和尚様は間もなく葬式に出ていった。
黙って 沸様の物を貰えば盗人となる。
でもこんな饅頭を喰ったことはない。右に左に善悪が交差して心が定まらずして居る時、よねの頭にひらめいたいい勘考が有った。

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宝蔵寺の昔話 房姫様物語01

私は寛延元年(1748年)奈良県柏村の一山村の貧しい家の男三人、女四人の」京大を持つ次女に生まれ、その名を”よね”と申します。
父母も子供を育てる為に朝早くより、夜おそく迄働いて居り”貧乏人の子沢山”故にその生活も大変でした。

大きい子供は家のお手伝いや子守など一生懸命にお手伝いをしました。
私も十二歳に成り弟たちの子守が専門の仕事でした。
今日も弟を背負って近くに有る禅宗寺の”徳行寺”にて子守をするのが日課で毎日が暮れておりました。

この徳行寺には五十歳位の和尚様が一人、寺の住職として寺を守り、時には人々の暮しの相談相手になったり手紙などの代筆を頼まれたり、それなりに忙しい和尚様でした。

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旧跡 錦織綱場

錦織綱場の開設年代は鎌倉時代に起源すると言われ、足利時代の永正年間には、錦織村河上綱場、筏場の両役所があって通関及び使用料を取り立てていたという記録がある。

錦織綱場

この綱場が、本格的に運用されるようになったのは、尾張藩が木曽の山林及び木曽川の運材の権利を領有するようになってからであり、寛文五年(一六六五年)には、ここに地方役所が設けられ、奉行以下役人百三十八名が常駐していた。

木曽の山から伐り出された材木は、一本一本木曽川を狩り下げ、ここで初めて筏に組まれ、犬山・名古屋方面へと流送された。

年間三十万本もの単材が筏に組まれ、通常秋の彼岸から春の彼岸まで筏流しが行われた。

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福地の水車小屋

福地は、500~600メートルの高原であるにもかかわらず、村内には豊富な水が絶え間なく流れる小河川が何本も流れている。これら小河川は、水田の灌漑用水と利用されているのは当然であるが、そのほかに水の落差を利用した水車小屋が各所にあった。

水車小屋は、通常、玄米から白米にするための搗精を中心として、米粉や穀物の皮取りなどをする大事な作業小屋があった。
川をせき止め、取水口から水路を作り、一定の落差(約三メートル)ができたところに、小屋を建て水車を回した。そして、車軸にカムギアを付け、水車の回転運動を上下運動に変換して、樫の木で作った直径一五センチくらいの「突棒」が、石臼の中心に落ちるようにセットしてあった。もちろん、水車が回っていても、突棒は止めることができるように、「クラッチ」の役割をする装置もあった。

石臼は、縦横が一メートル、高さ約八十センチくらいの石に、直径 八十センチ 、深さは約五十センチくらいであった。穴の形は、すり鉢状ではなく、U字型の穴状に深く掘ってあった。
これは餅つき用の臼では 搗精中に米などが飛び出さないようにするためであった。一カ所の水車小屋に、石臼が二つ装備されていた。

米の搗精の場合、石臼には五升(約九リットル)程度の玄米を入れると、一昼夜(二十四時間)で白米となった。しかし、米と米糖が混じるため、専用の「篩」で米糖を搗精中に取り出す苦労があった。しかし、現在のコイン精米機と違って、じっくりと時間をかけ搗精し、精米中に摩擦熱を出さなかったため、大変味が良かった。

福地の水車小屋は、小河川の水流を利用して設置されていた。その数は分かっているだけでも十カ所以上あった。

豊富な水を利用した水車小屋であったが、搗精の効率が悪かったことに加え、農協が組合員の希望により、米つき作業の専任者を傭い、効率の良い搗精機を導入したこともあり、水車小屋の老朽化が進んだこと、水車小屋を修理しようにも修理するための技術を持った大工や石工がいなくなってしまったことなどにより、昭和二十年代(1950年ころ)後半には、ほとんど使用できる水車はなくなってしまいました。

 童謡にも歌われた「森の水車」を懐かしく口ずさみながら、老人が米を背負い、農協の米つき場に通う姿があった福地の田舎風景を、今も思い出す。