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山論の舞台・長曽橋

 福地村と久田見村による山論は、尾張藩の久田見村VS苗木藩の福地村、犬地村、上田、飯地、中野方、切井、黒川、赤河及び蛭川の9村連合であった。

 山論の舞台は、福地、犬地両村の土地であったが、苗木藩の7村が加わったのは、福地村長曽にあった長曽橋(古くは「中瀬橋」と称した)が絡んでいた。長曽橋は黒瀬街道の長曽川に架橋された要衝であり、福地村庄屋・辻市左衛門正倚宅から約100mほど下流に位置し、現八百津町内で一番古い橋とされている。長曽橋がいつごろ架橋されたかを知る史料はないが、戦国時代の細目村黒瀬(現八百津町)から、この長曽を通り苗木の9村に通じていた。

 架橋時期の一説には、1635(寛永12)年「武家諸法度」が制定されてから始まった参勤交代の時に苗木城主が福地村長曽を通るとき、橋がなかったため村人がいた橋を作ったといわれている。城主が江戸表へ参勤する場合は、島崎藤村の「破戒」でも言われているように、中山道を利用することが合理的であり疑問が残る。京へ行く場合は、長曽橋を利用したであろう。しかし9連合村にとっては、年貢を運んだり日常の物品を手にするには、中山道より、黒瀬街道の通過点である長曽橋のほうが重要であった。

 当初の長曽橋は、板橋で橋脚のない短い橋であったため、大水が出ると流失してしまうことがたびたびあった。架け替えは久田見村を除く山論の連合村だけが出役し、修復していた。長曽はしは連合村にとって重要な共益の橋であり、橋の土地が久田見村になることを許さなかったのである。

 山論の舞台となった長曽橋は、1704~1710年の宝永年間に木製の橋脚をつけて改修されたが、現在ではコンクリート製となり、現存する黒瀬街道の一端となっている。

(注)この稿は    「福地昔の物語」(今井定夫著・未定稿2015年)    を参考にした。
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福地村と久田見村の山論2

 福地村と久田見村の山論上訴の背景には、久田見村が尾張藩をバックとして勝てるとの思いがあった。当時の尾張藩は60万石、対して苗木藩は1万500石である。

 神社奉行所の裁定は、1823(文政6)年に下された。それは久田見村が主張する、油草・樽洞・伽藍・伽藍谷など8字は、福地村領とするものであった。現在の福地村の約2分の1に当たる面積である。

 ただし、久田見村は、伽藍谷の一部200町歩(200ヘクタール)は100年間、福地村から借りることとした。これが後々問題を起こす原因となった。

 裁定は、1813(文化10)年欅事件から1823(文政6)年までの10年を要した。1667(寛文7)年から数えれば、156年間の紛争にようやく決着がついたのである。

 しかし、一件落着のはずであった山論は、1894(明治27)年(日清戦争が始まった年)に再発した。久田見村が突如、伽藍谷の一部180町歩を久田見村領とする所有権の登記をしたのである。

 「そんなこと、あらすか」と怒ったのは、福地の村人であった。話し合いはつかず、久田見村が鍬・鎌・鉈のほかに竹やりまで持ち出して樽洞周辺まで押し寄せ、険悪な雰囲気になった。このことは、私の隣に住んでいた故 谷津金八さんが生前に話してくれたことを覚えている。

 私の記憶によると、故 金八氏は、「日清戦争に従軍し、福地を留守にしていたが、退役した時、久田見村が、福地の樽洞あたりまで竹やり・鍬・鎌・鉈などをもって攻め入ってきた。福地の村人もこれに呼応し、険悪なこととなり、けが人まで出た」と話していた。

 明治の山論は、1899(明治32)年に仲介人(どのような人物であったかは、わからない)の骨折りで、久田見村が、該当地を175円で買うことに決した。ことの初めから数え232年、欅事件から数え86年、江戸神社奉行の裁定から数え76年を要した。

(注)山論の稿は    「切井郷土史」別冊(1988年・安江和夫編)    「福地村の戦争」(2007年・平野屋留吉著)    を参考にした。
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福地村と久田見村の山論1

 福地村・犬地村(苗木藩)と久田見村(尾張藩)の山論は、江戸幕府までを巻き込んだ一大紛争であった。それは、大尾張藩と極小苗木藩の入会林野の領地紛争(境界争い)である。

 幕藩体制が確立してくると、年貢完納は絶対命令となってきた。化学肥料がなかった時代の水田稲作の肥料は、人糞尿や牛・馬の厩肥のほかには、採草林からの木草に負うところが大きかった。年貢米を完納するためには、水田に施す木草が必須の条件で、領民にとっては木草の確保が米の収量に比例し、死活問題であった。木草を調達する山林は、村人にとって大切な調達場所であった。

 福地と久田見の村境(苗木藩と尾張藩の藩境)をめぐる山論は、苗木藩の福地村など9村と尾張藩久田見村の領地紛争である。

 領地紛争は、記録にあるだけで1667(寛文7)年から9回に及んでいる。紛争は、その都度内輪の内々で処理されていたが、1813(文化10)年、犬地村内で発生した「欅事件」が大山論の発端となり、1819(文政2)年久田見村が、一方的に江戸の神社奉行へ出訴した。

 奉行所は、双方の言い分を聴取するとともに、現地調査も4回実施し、1823(文政6)年になり、久田見村の言い分を認めず、9村の主張する境界を確定した。実に4年の歳月を要した。

 この間のいきさつは、多くの記録書があるが、福地村庄屋辻市左衛門による「山論日記」によれば、神社奉行所の3回目の現地調査は70日間に及び、苗木藩だけで5千人の村人を動員したという。おそらく、久田見村も同程度を動員したと思われる。

 山論の結末は、多くの村人を巻き込みながら、沓として結論を得ることができなかった。この問題の処理には、村人の出役と費用を要したが、双方互いに譲らず真剣に論争が続いた。そして、血気にはやる村人の中には、槍・刀を持ち出して争った。

 次回は、福地村と久田見村の山論の内容を記すこととする。

(注)山論の稿は    「切井郷土史」別冊(1988年・安江和夫編)    「福地村の戦争」(2007年・平野屋留吉著)    を参考にした。
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河川輸送の基地「黒瀬湊」

木曽川を遡る船着き場としての黒瀬湊の起源を明らかにする確かな史料はないが、伝えられるところによれば、木曽・飛騨両川の合流以奥の木曽川の水面には、幾多の奔流急淵があって、それに増し河身は随所に屈曲し、波浪甚だしく、古来より舟行不能の個所として、舟行を試みたものが無かった。

元和年間(1615~23)になり木曽山が尾張領に入り、寛文五(1655)年に材木湊が下流の牧野(現美濃加茂市牧野)より、上流の錦織に移されることになった。そのころ長良川筋において水運に熟達し西濃長良荘上福光の杉山某が、この木曽川上流の水運を開発しようと試みて、自己の乗用していた鵜飼船で楫子を引き連れ、木曽川を 遡江して黒瀬に来て舟路を開発した。その結果、根拠地(湊)をさだめ、多数の楫子を指導し、これを統制して盛んに水運を行うに至った。これが黒瀬湊の起源である。数年、黒瀬舟の覇名を唱えるに至った。

八百津を今日に表しめたのは、氏に負うところが多かった。この説は記録によるものでなく、伝承を纏めたもので、杉山某を黒瀬湊の開始者とするにはあまりにも時代が新しい。

しかし、舟運開発が他の河川より技術導入がなされ、鵜飼舟の使用と舟頭の出自は、長良川筋からであったと推定される。そして杉山氏は、享保元(1716)年四月十二日、この地に於いて卒去され、その墓碑は黒瀬湊より約百メートル上流の木曽川畔に新しく立て替えられている。

木曽川の水運の重要性は、木曽谷から木曽材を流送することがあったが、さらに木曽川筋の経済開発の面からいっても川道交通の意義は大きかった。木曽川は交通の大動脈で、室町時代(1392~1573)には、既に木曽川上流川筋の逆行の最終港として兼山湊があった。

木曽川の舟運は木曽材流送の間を縫って行われていたから、近世の頃には、それほど発達せず、領主の必要な物資や年貢米の輸送が大半で、江戸時代によって「木曽式材木運材法」が確立してからは、材木が冬から春にかけて流送されるようになり、それ以外の季節は航行自由であった。
一方、農民の商品生産が盛んになるにつれ、木曽川は物資を輸送する大動脈となった。

寛永中ころ(1630年代)、黒瀬に住み着く者が次第に増加して、従来兼山へ運んだ久田見苗木領辺りの山荷物が黒瀬で売られるようになる、黒瀬には未だ船がないので、兼山商人に買い取らせ、兼山舟で船積みし下川筋へ送っていた。

その後、黒瀬も兼山舟を雇って船積みを始めていたが、やがて黒瀬に舟も出来てきた。寛永年間に黒瀬が兼山代わって終航地となるのみでなく、奥筋の山荷物の商いも兼山商人を締め出し、ここに新興黒瀬は「錦織御用舟」の公益負担によって舟運権を入手することになった。

ここに水運が開発されると、加茂・恵那の後背地の山地集落の人々は、この水運を利用することが多くなり、黒瀬湊は貨物の集散が夥しくなった。このため天正二(1574)年には黒瀬湊舟積荷物に十銭役を課せられ、さらに元禄七(1694)年よりは商人荷物運上銀を取り立てられることになった。

このころより商家が多くなり、木曽川最奥の河津として、常に多数の鵜飼舟がこの港頭に集まり、帆柱林立して繁栄の湊となった。

「濃陽循行記」に曰く、「享保四(1719)年御役場御番所を立て各務勘兵衛役銀の事を掌る。黒瀬舟積荷物十銭役は天和二(1682)年より、商人荷物諸色運上銀は元禄七(1694)年より取り立つ、黒瀬町は商家多く繁昌なる湊也。高百六十三石八斗七合 家百七十五戸男女六百五十四事、鵜飼舟六十 艘 あり」とある。当時陸上の交通機関が未だ完全でなかったので、舟運が唯一の運輸機関であった。

黒瀬湊は日ごとに盛んとなり、加茂郡東北部の久田見・福地・潮見・飯地・犬地・和泉・神土・恵那等の移出品は坂路を馬の背によって、ことごとく黒瀬湊に運ばれ、黒瀬船によって下流の岐阜・笠松・一宮・名古屋・桑名・四日市等の各地に回航され、また苗木藩の江戸御用米は、この黒瀬湊より積み出され桑名を経て江戸に回航された。しかも下航した鵜飼船は、塩その他の移入品を積み、満帆に風を孕めて上航し、湊からは陸路黒瀬街道や白川街道を馬の背により、加茂東部を始め、恵那郡木曽川以西及び南飛騨の一部等広き地域に搬送された。黒瀬湊には、日ごとに多数の駄馬が往復し、商業繁盛を極め、鵜飼い船は百隻の多くを数えた。
明治二十(1887)年頃がその最盛期であった。

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房姫様物語⑨

「よね」は大日寺まで来た時に
大きな石の上で一休みした。
季節は春で、
ポカポカした陽気の中にウグイスの声も聞こえ、
そのうちついウトウトと眠ってしまった。

しばらくしてそこを通りかかったのが、
宝蔵寺の和尚さまだった。
「や、こんな所で尼さんが居眠りしているぞ。
風邪をひいたらいかん」
和尚さまは「よね」を起こした。

「私は大はんにゃ経六百巻を
六十六ヵ所のお寺に納めてゆく六部でございます」
「よね」がそう説明すると、
「今日は日暮れも近い。私の寺はすぐ近くなので。一晩泊まっていきなさい」
和尚様はそういって「よね」を寺に案内した。

「よね」は宝蔵寺で夕食をご馳走になった。
その翌朝、
「とてもお世話になった御礼に、
お寺のお手伝いをさせてください」
「よね」がそう願い出ると、和尚さまは喜んだ。
「それは大助かりです。ぜひお願いします。」

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 23号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


—–
(宝蔵寺住職・小笠原正)
光明山 宝蔵寺 〒505-0422 岐阜県加茂郡八百津町久田見4297
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房姫様物語⑧

「よね」は長い旅のお勤めを
立派に果たしました。
六十六ヵ所のお寺めぐり、
十日ほど予定を遅れて、
無事に徳行寺に戻ってきました。
和尚さまも村人たちもみな大変に喜び、
「よね」の労をねぎらいました。

「よね」は以前のように
和尚さまのお手伝いをするようになりました。
二十一歳の娘盛りで、お化粧などしなくとも、
十分に美しい娘でした。
「よね」はしばらくしてまた
旅に出ておつとめをしたいと
願うようになりました。

和尚さまにそのことを打ち明けて相談しました。
「若いときでないとできないことだ」
と和尚さまは賛成し、
今度は岐阜の美濃から東濃をめぐる
おつとめになりました。
「よね」は再び出発し、
美濃の細め村から野黒村に来て、
善通寺(現 連田)、浄蓮寺(現 上田)、大日寺(現 苦沢)まで来ました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 22号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


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(宝蔵寺住職・小笠原正)
光明山 宝蔵寺 〒505-0422 岐阜県加茂郡八百津町久田見4297
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房姫様物語⑦

あるとき和尚さまの所に
「六部となって
旅に出られる人は
だれかいないか」
という話がきました。
六部とは、
六はんにゃ経六百巻を
六十六ヵ所のお寺に納めてゆく人のことです。
六十日ほどかけてお寺をめぐってゆく
それはもう大変な仕事です。

和尚さまは悩みましたが、この仕事を、
「よね」にやらせてみようと思いおました。
話を聞いた「よね」はとても不安でしたが、
引き受けることにしました。

和尚さまは喜び、観音さまの像と、美しく輝く石の玉をくれました。
またお寺の檀家は、身を守るための短刀をくれました。
「よね」はそれらを大事に身につけて、長い旅に出発しました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 21号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


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(宝蔵寺住職・小笠原正)
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房姫様物語⑥

「よね」は翌朝から人が変わったように
熱心に働く子になりました。
弟を背負ったままで
境内の掃除をするのは、
決して楽な仕事ではありません。
それでも「よね」は落葉清掃など
とても熱心にやるようになり、
和尚さまを関心させる子になりました。

その後は和尚さまの
毎日のお勤めの準備も
手伝うようになりました。
お経も毎日聞いているうちに、
いつの間にか覚えてしまいました。

その後、数年がたちました。
弟を背負わなくてもよいようになると、
檀家の法要や葬儀にも
和尚さまについていって
お手伝いをするようになりました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 20号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


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(宝蔵寺住職・小笠原正)
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房姫様物語⑤

「まんじゅうを食いたいのはよくわかるが」
和尚さまはやさしい声で言いました。
「仏さまのものを、黙って食ってはいかん。
食いたければ、
私にまんじゅうをくださいと
なぜ言わなんだ。
まして黙ってとったうえ、
指でアンだけ食って、外の皮だけ
仏さまにお供えするとはけしからん」

「よね」はがまんしてきた涙と声が
一気にふきだし、大声で泣きました。
「和尚さま、ごめんなさい。
もう人のものには手をだしません」
心からあやまりました。

「わかればいい」
和尚さまはそう言って、
仏さまにお供えしてあったウイロウを
くれました。
和尚さまの前で堂々と食べるウイロウは
本当においしいウイロウでした。
「よね」はうれしくて、おいしくて、
泣きながらウイロウを食べました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 19号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
4月中旬が見頃で、ライトアップもします。 山里ならではの幻想的な夜桜を是非一度ご覧ください。


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(宝蔵寺住職・小笠原正)
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房姫様物語④

翌朝になりました。
「よね」はいつものように弟を背負って
お寺に行きました。
今朝は和尚さまはどんなお顔だろう。
心配でなりませんでした。
和尚さまは朝のお勤めの用意で
忙しそうに掃除しておられました。
昨日のまんじゅうはもうありませんでした。

お経が始まるとき、和尚さまが言いました。
「よね、ここへ来て、
私と一緒にお参りしなさい」
「よね」は和尚さまの後に正座し、
弟を背負ったまま小さな手を合わせました。
いつ和尚さまのカミナリがおちるかと
心配で心配で、朝のお勤めも上の空でした。

お経が終わると、
和尚さまは静かに話しかけました。
「よね、昨日のことだが、私の留守に
仏さまのまんじゅうを黙って食べたのは、
よねだな」
「はい」
「よね」は正直に返事しました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 18号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
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房姫様物語③

あまいアンをお腹いっぱい食べたものの、
家に帰った「よね」は
だんだん不安になってきました。
こんなことをして、
ほとけさまのバツが当たったらどうしよう。
「よね」は心配で心配で、
おふとんにもぐりこんでしまいました。

ばんごはんにも「よね」が
起きてこないので、
お母さんは心配になりました。
「よね、どうしたの?」とお母さん。
「お腹がいたい」と「よね」は
ウソをつきました。
本当はお腹がいっぱいで、
ばんごはんが入らないのでした。

お母さんは心配してオカユをつくり、
「よね」のまくらもとに置きました。
ところが「よね」が
それも食べないので、
今度は煮つめたセンブリを
持ってきました。
「これを飲みなさい」
センブリとは漢方薬なんですが、
それはもう苦くて苦くて、
「よね」は顔をしかめて飲みました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 17号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
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房姫様物語②

その日、徳行寺の和尚さまは
外で用事があるらしく、
昼前にお寺を出ていきました。
「よね」はふと思いついた方法を
どうしてもやってみたくなり、
とうとうほとけさまのまんじゅうに
手をのばしてしまいました。

お寺の階段に座り、
饅頭に人差し指をつっこんで、
中身のアンだけを上手にすくって
食べてしまいました。
背中の弟にもすくったアンを
指で食べさせました。

すっかりアンを食べてしまうと、
外側の白いところをそのまま残して、
もとどおりの場所に戻しました。
日も暮れかけたので、
家に帰りました。

房姫桜 引用:福地いろどりむら通信 16号掲載
構成・挿絵:北野玲/参考文献「宝蔵寺の昔話・房姫様物語」(山田貞一)

宝蔵寺は臨済宗・妙心寺派の寺です。
寺の前進である宝蔵寺が、この地に永くありました。 その昔、この地に来た巡礼の女人「よね」が、宝蔵庵で出家して尼僧となり、房姫様と呼ばれて親しまれました。
四十年ほど仏道に勤め、享和二年(一八〇二)に六二歳で浄土に旅立ったのです。

房姫桜はその尼僧を偲んで名付けられたヤマザクラで、樹齢二百数年です。八百津の天然記念物として文化財に指定されています。 周辺の樹木や進入林道の整備など、「房姫桜保存会」(金井正尋代表)では環境保全活動をおこなっています。
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