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宝蔵寺の昔話 房姫様物語 07

奈良県東部地内では有るが六十六か所の寺廻りで有る。生まれて始めての経験で旅での情けに涙したときも有った。

 各寺々へ納荷をして十日程予定を遅れて徳行寺に帰依をする。和尚様は「大変だったで有ろう」とその労をねぎらって呉れた。また、旅立の前と同じようにお寺でのお手伝いをする。

 時にして“よね”は二十一歳の娘盛りと成りお化粧なくとも美しい。また一、二年が立ちて旅に出たいと思うようになりて和尚様に相談して見たら「若い時でなけねば行けぬので、その気が有れば行って来なさい」と励まされ今度は岐阜美濃方面を和尚様より指定されて東農方面を巡拝する事と成る。前回の経験も有りて何も心配はない。奈良東部と同じように巡れば良い。

約一ヶ月後奈良よい岐阜美濃まで大分歩いてきた。細目村より野黒村に来て善通寺(現連田)浄蓮寺(現上田)大日寺(現苦沢)と納経を終り大日寺の石に一休みして居て知らぬ間に春のポカポカ陽気に誘われてなく鴬の声にうとうとと眠ってしまった。でも深く眠った訳ではなく、道を通る人話し声もうっつら聞き乍眠って居る側を通る悪童達が「オーイこんなところに女のお寺様が寝ているぞ」などと声も聞くが、暫くして通りかかったのが宝蔵寺の和尚様。起こしてくれて「尼さんこれからどこへ」と尋ねられ「私は大般若経六百巻を各寺に納めて旅を廻って居る六部でございます。」和尚様は「今日は日暮れも近いし私の寺はすぐ近くですので一晩泊って行きなされ」と云ってよねを連れて寺へ案内した。「有難うございます。ぢゃ本堂の縁の下でも廊下でも構いません。雨露だけ凌げればいいですから是非お願い致します。」「いやいやそんなに遠慮する事はないから」と云って夕食後身の上話など夜の更ける迄聞いていただいた。

お寺の朝は早く、朝の太陽が杉の木立に明の筋を引いている。よねは、和尚様に「大変お世話に成ったお礼に一、二日位お寺のお手伝いをさせて下さい。と願い出た。「そうしてくだされば大助かりです。是非共お願いいたします。」と和尚様。奈良徳行寺と同じ禅宗寺とてお勤め前の掃除から供物など準備を終りて、朝のお経をよねも和尚様の後に据りて上手に上げるので和尚様は驚いた。和尚様は「貴方様の都合も有るだろうが暫くこの宝蔵寺に居てお手伝をして貰えないか」と云った。よねは「私には後二十巻程納礼をせなばなりませんのでそれ以後なら宜敷しいのですが」「そうか。ぢゃそれから頼みます」と云った。

よねは約一か月東農方面まで足を伸ばして、福地、汐見、飯地、恵那方面まで巡礼。やっと大任をはたした安堵感で宝蔵寺に無事たどり着いた。和尚様と約束した明日より寺にておお手伝いをすることと成った。

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~木曽川の舟運の歴史~

 木曽川は、全国有数の山林資源である木曽、裏木曽からの材木輸送に欠かせないものであり、その究明が大いに進められていることは周知の通りである。

 飛騨の山林資源も、南半は飛騨川、木曽川による輸送をもって活かされ得たといえるものであった。伊尾川、長良川も共に木材採運に果たした役割は大きい。

 また領主の収取する大量の本年貢、小物成が、三水系を利用して桑名へ運漕されるなど、その舟運は欠くことのできないものであった。

 この様な運材、廻米など領主経済に枢要なものとして整備、保護された河川水運の気候が、次第に発展してきた農民的商品の輸送も担い、遠隔地との流通に大きな役割を果たすに至った。それに伴い、領主の庇護を受ける特権的な水運機構に対する抗争が、農民的商品流通を背景として展開された。

 かかる問題について美濃三水系の水運について検討し、農民的商品流通についてみていきたい。

 木曽川水系においては、兼山湊と黒瀬湊の紛争があげられる。兼山は大斉藤大納言正義が築城して以来、木曽川上流の要地となった。天文8年の正義画像明叔讃に「船之往還市中之聚散」とあって、既に舟運の発達を示している。

 永禄8年には森三左衛門可成が入って、城下町として整備し、市も立てたようで町は賑わっていた。

 天正12年、秀吉は小牧、長久手の戦いに際し出水時の渡河に備えて、兼山から犬山間の舟を悉く寄せるよう森武蔵守可成に命じている。兼山には相当数の舟があったと思われる。

 慶長4年、森忠政が信濃国川中島に増封されて移動となり、犬山の石川備前守光吉に兼山の支配が移るにあたっては、兼山への掟書に「市の儀可爲如前々」と定め、前代以来の市を保護した。

 かかる兼山まちは、関ケ原戦後、家康一幕府の戈入地となり、元和元年尾張領に編入されたが、この地域の商業の中心として発展した。

 妻木雅楽頭直頼が、兼山のさぬきや堤勝以から桧鋸板等や茶を買い付け、岡田将監善同も、二郎右衛門から酒、きのこ、松茸、材木、板等を買い付けしており、明暦2年美濃国尾張領覚書には「1ヶ月に6度の市有」とあって六斎市が開かれていたことも知ることができる。

 兼山から積み出される船荷物には、兼山まちの喜佐衛門、下渡村の次郎左衛門戈市郎が立会で改め、役銀を徴収して喜左衛門から錦織役所へ納入し天和3年には舟1艘につき10文10銭が役銭にとして徴収されていた。

 塩問屋は塩を上せて後背地苗木領の山間の村々へ手広く販売し、塩役銀39文5分を上納した。

 そうして近世初期においては兼山は商業の中心として、舟運の発達もみられたようであるが、中期に至って次第に衰退に向かっていった。六斎市は享保年代に中絶して享保14年に再興を許されているが、以前の賑わいには戻らなかった。

 細目村の黒瀬は、木曽川遡行の終着地であり加茂、恵那、両群の山間村を後背地とし、次第に兼山に代わる発展を見せた。細目は木曽川西古道にあって、古くは交通の要所でもあった。

 室町期にはこの地域に市場のあったことが大仙寺文書によって確認され、武儀郡汾陽手寺も細目で樽200枚を買得している。

 天正18年に秀吉から木曽代官に任用され、木曽川、飛騨川の支配をも委ねられた石川光吉は、錦織、太田、麻生とともに細目は木曽材川下げに大きな役割を果たしたのである。

 舟運も次第に発達し、寛永12年には24~25艘の舟があり、領主である尾張藩家臣稲葉氏の名古屋屋敷へ年貢米をはじめ薪炭、竹木など諸物資を川下した。

 大脇、勝山の3艘、下古井の2艘に比べてはるかに多い。かつて栄えた兼山湊の4艘に対しても圧倒的に多いことは、当時衰退に向かいつつある兼山に対し、黒瀬湊が商業の中心地として、その地位を奪いつつあることを示している。「濃州徇行記」によれば、細目の本郷から黒瀬にかけて、タバコ、炭、薪、板類、糸、木綿、塩、味噌、竹の皮、材木、白木などの承認が炭、黒瀬は139軒より家数が多く170軒あって町並みを形成し、白木問屋が2軒、商荷物問屋が2軒あった。

 木紙は細目村をはじめ苗木領、信濃から買い集め、岐阜、上有知へ販売し、尾張の丹羽郡、上軒、信濃、飛騨から繭を仕入れて糸にひき、関、岐阜へ送り、材木、白木、板類、薪炭も買って苗木領から名古屋、笠松、桑名へ運漕した。その他岩村藩の蔵米、小売米も川下げした。へたか船、ささ船、かみそり船などと称された10石積の鵜飼船の類であった。

 寛政11年には延3189艘が川を下り、細目役所が徴収する木類の端荷の役銀だけでも680匆に及んだ。船の上下日数を考えれば1日平均20艘前後の船が川を下ったのである。役銀は元禄7年から賦課されるようになり、享保4年庄屋家各務勘兵衛に、問屋宅を役場として業務を執らせ、13年に勘兵衛の特畑に役場を建てて細目役所とした。

 鍛冶屋炭、煽炭、紺屋炭、樫木、鋸板、割木など1艘分単位は錦織役所、諸荷物は細目役所で役銀を徴収した。10銭役は兼山と同様であった。

 元禄7年以降役銀が課され始めたのは、当時船運が盛んとなっていたからであり細目役所の設置もその反映である。

 こうした兼山村及び同舟運衰退と黒瀬湊の舟運の発展は、塩販売をめぐる紛争を惹起した。兼山村から小物成として塩役銀39匆5分を上納していることは先記の通りで、中世末、近世初頭から兼山湊の舟運よって加茂、恵那両群の山間地へ塩が運漕されていたが、黒瀬の舟運発展に伴って黒瀬を経て奥地へ運ばれる塩が増加していた。宝歴8年兼山の塩問屋山本藤九郎が、天正5年森武蔵守長可の認可による、その領内75,000石の塩問屋を主張して、黒瀬へ着ける塩1俵につき1升の塩の口徴収を藩へ請願した。兼山の塩問屋は初め久右衛門と久左衛門の両名であったが、その後藤九郎が久左衛門の株を買って出店。庄右衛門に塩問屋を営業させていた。藤九郎の提出した森長可の証文は紙質、筆も当時のものでなく、書式、文言ともに後年の手になるもので原本の写しとも言えないのであるが、藩は藤九郎の主張を容れて兼山より川上への登塩1俵につき1升の塩の口銭を藤九郎へ納入するよう命ずるに至った。

 この事態に、細目村、黒瀬の反対運動が展開されるのは必至であった。細目村商人惣代次郎九郎ほか13名、黒瀬船持惣代円三郎ほか8名、細目村惣代3名、庄屋各務勘兵衛が連盟して、

◇旧来より黒瀬の登塩には何ら障害がなかったこと

◇塩の口銭賦課によって塩の値段が高くなり、黒瀬の登塩にかわって加茂郡の山間地へは、飛騨川の麻生、米田辺りから塩が入り、恵那郡などの奥地へは中山道の下街道を経て中津川から塩が持ち込まれるようになっている。そのため兼山の収益も薄く、塩販売による山間地への取引減少で黒瀬の舟運も衰退している。そうなっては錦織湊の詰船役、船役銀などの負担も困難となること

◇黒瀬へ出荷して船積している薪炭その他の荷物について、兼山へ持通して船積するように久田見村などへ掛け合って、黒瀬の湊を潰そうとしていること

などを訴えて、新儀の塩の口銭廃止を懇願した。

 細目、黒瀬の商人は下流の笠松、円城寺などの問屋から、二季借り、あるいは薪炭その他山間村々から集荷した山荷物と交換する方式によって、塩を仕入れていたのであり、塩の口銭の新設に伴い塩販売の不利な立場に置かれることは山荷物の集荷の減少、舟運の衰退を招来するものであることは明らかである。久田見村を拠点とする加茂郡山間村と、奥筋恵那郡山間村を背景とする細目、黒瀬を中心に展開している商品流通に大きな阻止的要因となるものであった。

 藩は細目、黒瀬の商人、船持、さらに小駄賃持の者など加わっての請願を容れて、塩の口銭取りの新設を中止した。

 しかし享和元年兼山村の藤九郎は再度1俵につき1升の塩口銭徴収認可の嘆願に及んだ。細目村商人惣代20人、黒瀬船持惣代6人、組頭惣代3人、庄屋各務勘兵衛の30人は連判して、宝暦8年と同様の願書を提出し、久田見村百姓惣代4人、組頭惣代3人、庄屋平治も連名で連署し願書を提出した。久田見村の願書によれば、黒瀬から船揚された塩は苗木領30ヶ村、幕府直領3ヶ村、尾張藩40ヶ村余の村々に送られ、農間余業として1俵ずつ背負い販売している者も多く、久田見村には中継地として塩の販売、山荷の集荷を営む商人がいたことが解る。塩の販売先は北は加茂郡水戸野、和泉、小原、遠くは加子母、付知、川上の裏木曽3ヶ村にまで及んだ。山荷持は薪炭のほか、タバコ、こんにゃく芋、荏胡麻、楮などである。錦織地方役所は藤九郎の再度の嘆願を認めようとはしなかった。そのため、藤九郎は文政年間に塩問屋株を喜三郎に売却したが、喜三郎も天保5年にはその株を手放す有様であった。

 他に収益を求めざるを得なくなった藤九郎は、翌享和2年、兼山から大井、中津川、妻籠までの通し馬許可を出願した。兼山から塩を運び、信濃、東国から諸荷物を金山へ駄送し兼山から船積しようとする企画で、兼山における荷物問屋を兼ねたいと言うものであった。

 当時、伊奈街道、中山道を経て名古屋へ輸送されるものが多く、かつて信濃、東国の諸荷物を兼山経由で川下げしていた経路を再興しようと考えたのである。しかし商品流通路から隔てられた兼山は昔日に戻らなかった。

 寛政7年当時1,250石の酒造米高を有し、江戸或いは伊勢へ300~400石船積していた藤九郎の次男増四郎は、享和元年には仕込み僅か32石に激減し、文化5年には酒倉を売却して水車渡世となっている、山本藤九郎の衰退は、兼山の事態をよく示すものである。

 以上、木曽川の兼山湊と黒瀬湊を中心として、木曽川水系の舟運について史実に基づいて列記してみた。

 領主の城下町として、領主の手による市場、運輸機構が整えられた兼山町が、城下町の機能を喪失した後も東美濃の商品流通の拠点として重要な役割を果たしていたが、更に上流の黒瀬が恵那、加茂両群の広い山間地を後背地として繁栄し、その役割をとって代わろうとした。この両湊の興廃は塩販売をめぐる紛争を惹起しているが、一般的に川湊は後背地へ塩を供給する役割を有しており、山間地との商品流通に塩が需要な媒体をなしていることが知られる。

 農民的商品流通の発展にともなって起きた問題について、多少解明したとは言え、どの様な商品がどれ程の量で、どの時期にどの経路を経て、どこ迄運送されたか多くは詳かではない。舟運の機構についても、問屋の性格も究明すべき問題として残され、陸上運輸、特に脇道の商品流通との関連も追求する必要がある。今後これらについて、さらに多くの考察を加えなければと思われる。

転載:柘植成實 著
黒瀬街道


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木曽川の舟運について ~木曽川舟運の終焉~

 近代に入っても、木曽川や飛騨川の舟運が果たしていた役割は、近世におけるそれと基本的には変わらなかった。飛騨川流域から出される物資の多くは下麻生湊に、恵那郡や加茂郡から出される物資の多くは黒瀬湊に、土岐郡から出される物資の多くは野市場湊や伏見湊に集められ、黒瀬湊や川合湊などの舟によって下流に運ばれていた。

 小山湊は飛騨川に浮かぶ小山観音の北側にあった。当時は今渡ダムがなかったため、飛騨川の水位は低く、川原には飛騨川が大きくくい込んでいる場所があった。ここが湊になって、長さ7間半、巾5尺5寸の大きさの舟が約80艘出入りしていた。

 大正から昭和の初期にかけては、小山湊の船頭たちは下麻生湊の物資を愛知県葉栗郡草井、中島郡起町に運んでいたという。船頭たちが運んだのは、薪炭や柴、カンメンである。船頭たちは、午前3時には小山湊を出発し、4時間程かかって下麻生湊まで上っていった。そして昼過ぎまでかかって、船に物資を積んだ。物資を積み終わると、舟は水面から3寸ほどしか出ていなかったそうだ。積み終わってから小山湊まで帰ってくると、午後2時から3時になっていた。この日はこれで終わり、下流に向けての出発は翌日の午前3時ごろであった。

 まだ暗いうちから大量の物資を積んだ船で、岩が所々突き出ている飛騨川や木曽川を下ることは、大きな危険を伴っていた。飛騨川や木曽川の様子を知り尽くした船頭ならではの芸当であった。

 送り先の問屋につき、物資を問屋の倉庫に運び込むと、もう夕方である。仕事が終わると船頭は舟に戻った。舟の中には、クドが備え付けられており、鍋やヤカンも持ち込まれていたので、食事の準備をすることが出来た。また、舟の中には寝具も持ち込まれていて、食事が終わると舟の中で寝ることも出来た。そして翌日の3時頃には小山湊に向けて、川を上り始めるのである。  舟には2人の船頭が乗り込んでいたが、目下の船頭は舟の先端に付けた長さ尺2寸ほどの細い麻縄を引っ張って川原を歩き、目上の船頭は舟の舵をとっていた。舟で小山湊に上がってくるとき、今渡や古井の問屋に依頼されて、わずかの手間賃を稼ぐため笠松の問屋から味噌やタマリを、起の問屋からは瓶を舟に積んで来ることがあった。しかし空の舟で上ってくることだけでも重労働であったため、一度に多くの物資を運ぶことは出来なかった。ふつうは味噌1樽を運んでくるのが精一杯であったが、働き盛りの船頭が二人金でいるときは、どうにか味噌2樽を運んできたという。

 耕地の少ない小山の人たちにとって、舟運が生活を支える大きな柱であった。そのため危険が伴う重労働とはいえ、船頭を続けざるを得なかったのである。

 だが昭和12年に飛騨川に川辺発電所が完成し、同14年に木曽川の今渡ダムが竣工されることになると、飛騨川と木曽川を舟で上り下りすることができなくなり舟運は姿を消していった。

転載:柘植成實 著
黒瀬街道

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戦国武将の領国経営と湊

 戦国時代、織田信長の尾張平定や美濃攻略の事業にあたっては常に第一線に立ち、大きな戦功をあげたことによって烏峰城を与えられ、東農地方を支配することになった森三左衛門可成という武将がいた。

 後に可成の跡を継いだ森武蔵守長可は、城下町経営はもちろんのこと領国経営の一環として川湊を開設育成しようとした。史料には「船問屋福井治郎左衛門を金山下渡に移転させ、船問屋及び、船頭屋敷として1反4畝16歩の地を免租地とし、ここに船問屋、同倉庫、船頭屋敷等の建設を認めた」とある。このことから戦国時代末期にはすでに兼山湊が生まれていたということが分かる。

 慶長5年、森右近大夫忠政が川中島に国替になると兼山は城下町としての地位を失うことになった。しかし幸いにも当時は兼山湊が木曽川における遡航終点であったため、東農でただ一つの川湊として発展する可能性は残されていた。

 元和元年、兼山村が尾張藩領になると、兼山湊は船役銀(船1艘につき銭10文)を尾張藩に納めることになった。当初は尾張藩の役人が兼山に出張して兼山湊を飛騨川にあった下麻生湊と共に支配していたが、その後、兼山湊の船問屋治郎左衛門が兼山湊と下麻生湊の船役銀の取立てを代行することになった。その船役銀の総領が6,000両にも及んだというから、この二つの川湊の繁栄が伺える。

 東農地方の物資の集散地となった黒瀬湊は、寛永12年頃には24艘~25艘の舟があり、稲葉右近の名古屋屋敷に年貢米や、薪炭、竹木を運んでいたと言うから近世初期において既に木曽川上川筋の遡行終点として発揮しはじめていたことがわかる。

 その後、近世中期になると、「商家多くして繁昌なる湊なり、家数175戸(内四日市場8戸あり)男女654人、鵜飼舟60艘、白木問屋2戸、商人荷物問屋1戸あり、その外船乗り多し。この湊にて当初近村の商荷物は勿論の事苗木領より日々人の背負い出る荷物や牛馬荷物などを船積にして、木曽川を下し処々へ運送するに便利なる処なり。されば兼山辺りよりも港町並ににぎはしく見えたり。」とあるように、鵜飼船60艘で、近在の物資は勿論のこと、苗木領から出る物資を流送していた。当時の黒瀬湊は兼山湊をしのぐ賑わいを見せていたのである。

 黒瀬湊に隣接する蘆戸にも「小商いをする家多し 此の所は御役桴11ありて多く桴乗を渡世とす。又船かせぎもする也。黒瀬附の鵜飼船10艘あり」とあるように、黒瀬湊に集まる物資の流送に携わって生活する人々もいた。

 また黒瀬の本郷である細目村も近世中期になると、この本郷より黒瀬までの間で煙草、炭、薪、板類、糸、木紙、塩、味噌、竹の皮、材木、白木などを商い、其の外萬物商も多かった。

 木紙は細目村を初め隣郷の苗木藩領、信濃辺りから買い寄せて、岐阜や上有地へ売り、糸蛹は尾州丹羽郡辺りならびに上州、信州、飛騨辺りより買い求め、細目村にて糸に引き、関・岐阜辺りへ送っていた。材木、白木、板類、炭、薪は苗木領近村などより買い寄せ、名古屋・笠松・桑名表へ送り、また塩は名古屋・四日市・桑名・笠松・北方・円城寺辺りより買い寄せ、隣村苗木領辺りへ売り捌いていたことが史料から分かる。細目村が、黒瀬湊の舟運を背景に東農地方における商品経済の一つの中心となっていたことが伺える。

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~河川交通の展開~(木曽川と飛騨川における川湊の盛衰)

 かつて東農と飛騨南部の物資を大量に運搬するにあたっては、木曽川と飛騨川の舟運が重宝されていた。物資は人の背や牛馬によって川湊に集められ、舟で下流に運ばれた。舟運に関した木曽川と飛騨川の川湊には、黒瀬湊、兼山湊、下麻生湊、小山湊、川合湊、伏見湊、野市場湊、太田湊、大脇湊、勝山湊、笠松湊、起湊などがある。

 これらの川湊をひとつひとつ見ていくと、各湊の成立時期は明らかではないが、木曽川と飛騨川の舟運において、それぞれの川湊が果たした役割が判明する。

 古文書によれば、木曽川上川筋において最も早く開かれたものに大脇湊がある。土田の領主大塚治右衛門の家臣塚田庄衛門が「鵜飼船」と呼ばれる舟(現在長良川で活躍している鵜飼船とは異なる作りをした舟)を作り大脇村の甚右衛門(後の舟問屋)に支配させたのが大脇湊の始まりと言われている。

 慶長5年の関ケ原の合戦において徳川秀忠は信州上田の真田攻めに手間取ってしまったが、その時「関ケ原御陣の時、家康は東海道を上り給い、秀忠は木曽路を上り給いしが、家康公、秀忠公の遅参し給いを怒り便りをつかわされ、その事を強く叱責しかば、嶮山に武器を通わず故かく遅参に及べる旨、答あり、然るにその時、上田の舟問屋の祖先甚右衛門という者これより木曽川を船にて武器を通し給いしは、早く彼の地に貴せんと申上がり」とあるように、武器類を大脇湊から下流に流送している。

 ところで大脇湊のすぐ上流では、可児川が木曽川に合流している。この合流地点のことを「大濤可児合と言うが、支村大脇は本郷の西木曽川と可児川の落合にあり、この落合を可児合と言う。往来の船この瀬を越す事をかたずる也。巌石欹ちて危うき処なり この大脇は木曽川上にて湊の本なるよし、古之可児合の瀬につかえて川上へは舟を通ずることあたわず」とあるように、舟が上ったり、下ったりするときの最大の難所であった。そのため、木曽川の舟運が始まった頃は、舟が大濤可児合より上流に上ることが出来ず、大脇湊が遡航終点となっていた。

 その後、大脇湊より上流に幾つかの川湊が生まれてきたため、大脇湊は衰退していった。

 近世中期には、元は10艘あった鵜飼舟も1艘となってしまい、運送の利潤もなくなり、それにつれ商人なども衰えていくという状況になってしまった。川湊としての機能がなくなり、物資もほとんど集まらなくなってしまったようである。

転載:柘植成實 著
黒瀬街道

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~物品の運賃~

 明治40年の記録によると、柿600貫を黒瀬から名古屋まで15円を支払い。塩1駄を笠松から黒瀬まで16銭支払い。

 黒瀬船には運賃取りの船ばかりではなく、船主兼船頭が炭・薪などを仕入れて、犬山、笠松などで売りさばく商船もあった。

転載:柘植成實 著
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~積載量と船運賃~

 大体、下り船は積載量460貫と言われ、上り船は100貫程度であった。ところが、上り船の場合は、名古屋、桑名から笠松までは1,000貫位積んだとも言われる。運搬物資は時期によって異なるが、黒瀬船を基準にして積荷物と着荷物の2つに分けて品物を列挙すると、

【積荷物】炭・おこし炭・加治屋炭・紺屋炭は船1艘・大俵64・小俵80・薪・割木・挽木類材木・桧曲物・小豆・蒟蒻芋・茶・生糸

【着荷物】青物・野菜・油・石油・生鯖・溜(たまり)・味噌・塩・砂 糖メリケン粉・豆・蜜柑・菓子・乾物・畳表・操綿・唐糸・太物・金物・荒物・古金・藍玉・小間物・陶器

 明治16年の「木曽川筋出入船及物品」という記録をみると、

 運賃定 享和元年2月 何れも黒瀬より 兼山=500文 犬山=1貫80文

桑名=2貫8文 名古屋=2貫688文 大垣=2貫300文

時間朝5時黒瀬出発=その日の夕方5時桑名に着く。

 翌日昼頃に名古屋に着く。帰り、名古屋から千本松原まで1日翌日の晩に黒瀬に着く。

 とある。

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~船頭の服装~

水の中に入る関係上、股引は用いない。冬は着物(袖口が鯉口といって筒袖)その上に半纏を着る。夏はふんどしに紐付きのシャツを用いる。船の手入れは充分にするが、水の藻がつくと重くなり、早く腐る恐れもあるので船底を時々藁で焼く。

転載:柘植成實 著
黒瀬街道

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~船の諸道具~

  • 竹竿(3本内1本予備)長さ10尺と11尺。先に「とっこ」をつける
  • 櫂(かい)2丁、大は13尺、小は10尺
  • かい縄(ろ)いち名、いのちづなとも言う
  • 櫓(ろ)1丁笠松から用うる
  • 帆には、
    • 帆柱15尺の丸太
    • 帆の上下につける竿
    • 帆幅8尺、長さ木綿でさしこ
    • 帆綱、麻縄で細く5丁尋、重量150匁

 上りに使う。特に瀬の流れの早い処で水の中に入ったり、或いは向こう岸に泳いだり、また川原を「あしなか」と言う草履をはいてへさきに乗る若い者が腰をかがめて力一杯曳く

  • かりと蓋付箱で、この中に布団・蚊帳・衣類を入れる
  • いどこ・甕を埋めて作ったくどで、炊事道具
  • いとり、舟の中へ雨や水が入った場合かき出す道具
  • 船敷・船の底に敷くもので、作った竹の簀がある
  • こも雨の降る場合、帆柱を棟にして〇で屋根をふく
  • その外いかり、船の掃除の場合の箒などがある

転載:柘植成實 著
黒瀬街道